ゆくえしれず











 元親には、忘れられない記憶がある。初陣から帰還した日の記憶だ。
 戦場は伝え聞いていたものよりもはるかに厳しく、惨たらしく、ひどいものだった。命が絶える瞬間をまざまざと見せつけられる。けして目を反らすな、と光の消えた黒々とした瞳がこちらを見つめ、訴える。がたがたと身体が震えて止まないほど、芯から冷えて仕方なかった。おそろしかった。
 その日、どうやって屋敷まで帰ったのか、覚えていない。気がつけば元親は門の前に一人で居た。ぼんやりと青空を見上げる。細い煙が一筋、長く伸びていた。
 元親はぎくりと肩を強張らせる。鼻腔の奥で肉の焼けるにおいがよみがえった。ぶわ、と全身の毛穴が開き、冷や汗が背を伝う。
 それまで棒きれのように突っ立っていた元親は、弾かれたように飛び出した。方向からして煙の出所は庭周辺だと見当はついている。冷静な頭は有り得ないと答えを出しているのに、一度走り出した足は止まらなかった。真っ赤な炎に舐め尽くされたこの屋敷の幻がちらちらと瞼の裏に映る。呼吸が滞り、苦しい。戦場に舞い戻ったかと錯覚してしまう。
 息を切らして突然現れた元親に、侍女は飛び上がるほど驚いたようだった。おかえりなさいませ、というどこかずれた言葉に、元親もまたぎこちなく、ああ、と返す。さっと青ざめた彼女の顔色は、見逃すにはあまりにもあからさますぎた。元親の視線は、到底屋敷など燃やせそうにない小さな焚き火へ注がれている。
 瞬間、湧き上がった思いを今でも言い表すことは出来ない。泣けばいいのか、怒ればいいのか、はたまた笑えばいいのか。どれも違う気がした。
 大事に、大事に。誰の目にも届かない奥へと仕舞っておいた筈だった。戦へ出るならば、それらと決別しなければなるまいと思った。きっと似合わなくなるのだ、手元に置く必要はない。ただ、どうしても忘れることは出来そうにないから、いつか懐かしめる日が来るまでそっと隠しておくつもりだった。
 それが今、炎に包まれ灰となり、さらさらと風に流されている。
 ああ違うんですこれはあの言いつけられて。呆然とする元親を前に、侍女は何とか言い繕おうとしどろもどろに言葉を重ねた。その姿はいっそ、哀れに見える。
「…いい。あとは俺がやる。下がってくれ」
 そう言ったきり、ゆらゆら揺れる炎から目を離さずにいると、程なく彼女の遠ざかる気配がした。
 一歩、また一歩と近づき、傍へと力なくしゃがみ込む。火を消そうにも既に大部分がが燃え尽き、手遅れだった。華やかな模様で元親の目を楽しませていた羽織がじわじわと炎に飲まれてゆく。鞠やかんざしらしきものの燃え滓も見て取れた。元親は抱えた膝の間に顔を埋め、呻く。
「ごめんな…守ってやりたかったのに…」
 もくもくと無情に立つ煙が大層目に染みた。





 耳を劈く爆音に元親は我に返る。考えに耽っている時間は残されていないらしい。鼻の奥を刺激する火薬のにおいに、遠慮なく眉を顰めた。何度嗅いでも好きになれない臭いだ、吐き気がする。どうしてかあの日のことも思い出すから、嫌いだった。長槍へと伸ばした指先はみっともないほど震えている。
 たたかいたくないのか。元親は自身に問いかける。
 掌にかいた汗が答えのような気がした。
「よぉ」
 ゴゴゴ、と背後の門扉が重々しい音を立てて開かれる。次いで聞こえてきた声が、幻だったらどれほど良かったことか。元親は唇を噛み締め、殊更ゆっくりと振り返った。
「政宗…」
「久しぶりだな。確か冬の終わり頃、奥州で会ったのが最後だったから…半年ぶりか?」
 そこには常から好んで身につけている、蒼い戦装束を纏った政宗が佇んでいる。言葉の合間に短く吐き出される息からひどく興奮しているのがわかった。上向きの口元は笑んでいるように見えなくもないが、凶暴な色を隠しきれていない。元親は、ぎゅう、と手元の柄を力一杯握り締めた。これまで長らく政宗と付き合ってきたが、初めて見る顔だ。
 にた、と政宗は一層楽しげに顔を歪めた。
「あいたかったぜ…」
 吐息混じりの言葉に元親の全身が総毛立つ。恋慕を包み隠さず滲ませた響きなのに、ガクガクと全身が震え、今にも膝が崩れ落ちてしまいそうだ。  元親は乾いて張り付きそうな喉から必死で言葉を紡ぐ。
「もう、やめに、しようぜ。こんなの、意味がねぇ」
「意味がない?」
「そうだ。俺たちが争う理由なんてねぇだろ?なぁ?」
 言い募る元親に、政宗は押し殺した笑いを返す。くく、と堪えきれず引きつれた唇の合間から漏らしながら、政宗の手は腰に提げた刀の内一本へと伸びていた。いやだ。元親は我が侭な幼子のように首を振る。がしゃり、と長槍に備え付けた鎖がやかましく鳴った。
「嫌だ、だと?何を言ってやがる」
「いやだ、まさむね、いやだ、やめてくれ」
 殆ど泣きそうに顔を歪めて元親は後退る。正面から見据えた政宗の瞳が全てを語っていた。瞬きすらせず、迫ってくる。逃げられない。
 ここまで政宗を突き動かしているのは一体何なのだろう。血の気が引いた頭で考えても、思い浮かばなかった。
「愛してる、元親!」





 ふと、時折思い出すことがある。もう何年も前のことだ。
 それまで疎遠だった母がわざわざ手料理を運んできたことがあった。不審に思ったが、たんとお食べ、そう言ってにこりと微笑まれると、断る道理は最早ないと思われた。政宗の母は、それは綺麗で美しく、高貴な女性であった。どんなに疎まれても、そんな彼女のことが政宗は好きだった。
 一口、含む。舌がぴりりとした刺激を感じて、しまった、と後悔した時にはもう遅い。しっかり握っていた箸が畳へと落ちた。
 途端、ぐにゃりと醜く歪んだ母の相貌は今でも鮮明に覚えている。
 かっかと喉は灼けるように熱く、臓腑が解けてしまうのではないかと思った。政宗は霞む意識を叱咤し、含んでいたものを吐き出す。二度と同じものは食べられなくなるかもしれない。また嫌いなものが増える、くそ、とひとり毒づいた。高笑いする母の声が耳に障る。
 突然襖が開いたと思うと、隣の間からは近頃とんと見なくなっていた弟が現れた。
 見なくなっていただけで当然居なくなった訳ではない。おそらく、小十郎かそこらが自身の目から離していただけだろう。要らぬ気を遣わせてしまっていたようだ。
「あ、兄上!お覚悟!」
 声と、一降りの刀を握る手が情けないほど震えている。仕方があるまい。稽古はこなしていても、まともな戦になど出たことがないのだから。
 その女のように生白く細い腕で人を、俺を斬れるのか。政宗は思った。
 蹲った所を狙って放たれた一閃を寝転がることで軽々と避ける。ざく、と藺草を裂いたのに驚いたのか、ひぃと息を飲んで弟は立ちすくんだ。まさか真剣を持たせることも母はこれまでしてこられなかったのか。怒りにも似た大きな感情が政宗の心を占め、自由の利かない身体を動かす。立ち上がり様、手首を軽く捻り上げると、簡単に刀を奪うことが出来た。無機質な固い柄は吸い付くように政宗の指に馴染む。空いていた手を軽い力で添え、すっと息を詰めて、一振るい。

 何も聞こえてこなかった。

 気がつけば、頬が生温くべたついている。何の気無しに指で拭った。掌の中で滑り、足下へ落ちた刀が耳障りな音を立てる。
 顔の右半分を真っ赤に汚した母は、こちらを見て何事か言っているらしかった。あまりに微か過ぎて政宗は聞き取ることが出来ない。訪ねようにも、意識を保っているのはもう限界だった。
 倒れる間際、政宗はにこりと笑う。
 いつまでもこの胸を悩ませることになるだろうと考えていた痼りは今や消え失せ、代わりにぽかりと空いた穴にすぅすぅと風が吹き込んだ。何故か清々しい気分だった。
















(2008/12/07)
学園アンソロの企画のブツです。
リクエストありがとうございました!