ピアニシシモ











 今になって、喧嘩の理由を佐助は覚えていなかった。幸村はああ見えて頑固で、一度頭に血が上るとこっちの言い分なんて聞きやしないのだ。
 しかし、その点を差し引いても、今回の喧嘩は酷い。
「佐助とは、ゼッコウだ!もう口なんてききたくない!」
「言われなくとも俺からゼッコウしてやるよ!」
 たかだか十歳そこらで知っている言葉なんて大したことはなかったが、それでも思いつくまま相手を罵り別れた。
 自宅に戻った佐助は、真っ直ぐ部屋のベッドへ飛び込む。枕に埋めた顔は、火がついたように熱い。むかむかと胸にこみ上げてくるのは、幸村に対する不満や怒りだった。あまりに勢いを付けて吹き出してくるものだから、うまく整理することが出来ない。ちゃんと形にして吐き出せるのなら、こんなにすっきりとしない気分を味わわなくても済む気がする。
 ふと部屋を見渡すと、机の上には3日前幸村が忘れていった赤色のペンと消しゴムがあった。床には洗濯の終わった衣服が畳まれていて、その中には一週間前幸村がお泊まりした際置いていったままのTシャツが。ランドセルの中、ファイルには一緒に勉強した時紛れ込んだ幸村のプリント2枚。幸村のコミック全9冊は雑に積まれている。幸村が勝手に持ってきた、触り心地の良いクッションが転がり、クローゼットの中には幸村専用となりつつある布団一式。
「…ちくしょっ」
 佐助は拳で枕に八つ当たりしながら、起き上がる。





「あらあら」
 幸村の家を訪ねると、顔を出したのは母親だった。
 佐助の顔が抱えた荷物で隠れているのを見て、慌てて一部を受け取る。箱にはごちゃごちゃととにかくたくさんの物が詰められていた。
「すいません」
「いいえ。これ全部、幸村の忘れ物?」
「多分。俺のじゃあないんで」
「こんなにあるなら、取りに行かせたら良かった。ゴメンなさいね」
 そう言って彼女が笑う。佐助はこの笑顔が好きだった。けれども、今日はどうしても正面から見ることが出来ない。持ってきた荷物は、とりあえず玄関に置かれた。あとで片付けるよう、幸村には伝えられるらしい。
「佐助くん、もし時間があるならお茶でもどう?」
 答えるよりも早く準備されたスリッパを履いて、佐助は複雑な気持ちでキッチンへと通される。注がれたアップルティーはとても甘く良い香りで、嗅いでいるうち喉が渇いていたことに気が付いた。
 てっきりここで御馳走になると思っていたのだが、予想に反して彼女は小さなトレイにカップを乗せると、家の奥へと案内する。断るのも今更だし、この後特に用事があるわけでもない佐助は大人しくその後ろを歩いた。数度廊下を曲がり、着いた部屋の中を覗くとそこにはピアノが置いてある。扉のガラス越しに見えるのは、グランドピアノだ。
 そういえば、母親は音大に通っていたからいろいろ弾いてくれるのだ、と幸村から聞いたことがある。感性の欠片も皆無な幸村には、そうでもなければ芸術と一生縁が無さそうだと思った。
「ここは防音されていてね、気が向いたら演奏するの。音楽は嫌い?」
「いえ。あんまり詳しくないですけど」
 外の音は耳に、一切届かなくなった。薄い特別製のドア一枚で隔てられたこの部屋は、まるで世界と別物になってしまったように感じる。慣れない閉塞感に、佐助は落ち着かない様子で辺りを見回した。
 向こうの壁にある棚には、学校の音楽室をひっくり返しても足りないくらいの楽譜が、所狭しと並べられている。楽しそうに笑った彼女の顔と目が合った。
「どうせなら、ティータイムらしくしましょうか」
 その中から数枚、しばらく迷った末取り出すと、彼女はピアノの前に腰をかける。佐助にすすめられたのは、一番近くにあった椅子だ。一口、カップの中身を含むと茶葉の匂いがそこら中に漂った。



 彼女は、感触を確かめるように手を摺り合わせると一度だけ息を吸って、吐く。爪を切り揃えた指が、ゆっくりとやさしく、規則正しく並んだ白と黒の鍵盤を弾き出した。
 思わず、佐助は見とれていた。たった十本の指が、88鍵を自在に動き回る。目まぐるしくタッチは変わり、しかし一貫して繊細な響きは佐助だけではなく、この小さな世界すらも音の渦に浸してしまった。勢いのついた上昇音形の後、ことさら気を遣って艶やかな分散和音が奏でられる。
 それを最後に離れた白くて細長い彼女の指は、やはり幸村に似ていた。違うのは、爪の間に泥が入り込んでいないことだ。いつも自分を握る手はやんちゃに汚れていて、綺麗だと言い難い。
 佐助が目を閉じる。
「…できれば、仲違いなんてしたくないわね。だって、謝ることにも勇気が要るから」
 ね、幸村。
 そう言って、彼女はピアノの下を覗き込んだ。そこには、膝を抱えた幸村がちょこんと収まっている。
「謝らないぞ」
 忙しなく目は泳いで、口を尖らせたままだ。
「絶対、謝らない。どうしてゼッコウしたのか、覚えていないから謝れないのだ」
 佐助は短く、ずっと胸に留まっていたため息をついた。カップに映るその顔は、口元が緩んでいる。
「いいよ、どうせ。俺も謝らないから」





「佐助。プリントがない」
「だって俺が持ってるもん。玄関にあるよ」
「一人じゃ、できない」
「はいはい。じゃあ、さっさと終わらそう」
















(2006/10/25)