世界のはじまりをきみと見たい











 最悪な朝だった。いかにもな悪夢に魘されて目が覚めた。もう一度寝直せば、幾分か気分が晴れる予感はあったが、約束がある。今直ぐ起き出さなければ間に合わない時間だった。
 のろのろと洗面所へ足を運び、蛇口を捻る。あっという間に溜まった水は器の縁から溢れた。ばしゃり。すくいあげて顔にかけると冷たいそれが肌の上で弾け、そこらに飛び散る。しかし気分はちっとも晴れなかった。試しに両の掌で頬を叩いてみる。視界がぶれて、じんじん痛くて、ただそれだけだった。馬鹿なことをしたと思う。濡れた顔で眉を顰めた自身の姿がはっきりと鏡に映って、思わず舌打ちをした。



 電車を乗り継いで、待ち合わせ場所へ。携帯のディスプレイに映し出された時刻によると、未だいくらか余裕がある。どこかで一息ついて待とうか。ちょうどコーヒーが飲みたいところだ。朝の一杯のコーヒーはこのいかんともし難い気持ちを少しでも和らげてくれるかもしれない。そんなことを考えて、人が忙しく行き交う改札を抜けたその時だった。
「よ!」
 声のした方向へ、振り向く。
 いつも通り派手なTシャツ一枚によれたジーンズ。まさか地毛とは思えないような、見る者の目を否応なしに奪う白銀がふわふわと柔らかく揺れている。こちらの姿を認めると、長い腕を持ち上げ人好きのする顔で笑って見せた。
「元親、か?」
「なんだよそれ」
 咄嗟に気の利いた返事が出来なかったのは、そういえば大抵待たされるのはこちらだったからだ。こんな状況に慣れていない。歩み寄ってくる元親を立ち止まって待ち、しかし結局掛ける言葉は何も思いつかず、黙っていた。
「政宗はいつも時間ぴったしだな」
「アンタが遅ぇんだよ。この遅刻魔」
「うっせ。で、どうする?まだちょっと早ぇよ。上映時間には」
「チケット買うとかすればちょうどいいだろ」
 そう提案すれば、元親に異論はないようだった。
 連れ立って人混みの流れに乗りながら進んでゆく。目的地は映画館。駅からさほど離れていない場所にある。
 途中、他愛もないことを二人で話した。昨日の夜、眠りにつくまでのこと。今日の朝、目が覚めてからここに来るまでのこと。あと一週間足らずで始まる夏休みのこと。映画を見終わった後のこと。さらに、その後のこと。
 元親とは普段、どうでもいいことしか話さない。それが気楽でいい。
 取り返しの付かない言葉は昔から嫌いだった。
 ただ、以前一度だけ、そう元親にふと漏らしたら悲しい顔をされて複雑に思ったことがある。もしかしたら、誤解されていたのかも知れない。けれどもそれが何か分からなかったから、ぽつりと小さく謝ることしか出来なかった。あれから元親の前では似たようなことも一切口にしていない。掘り返してみてもいいが、あの時より格段に多くを分かち合えた今の状態でもすべてを伝えきるなんて無茶そのものだと思ったし、正直なところどうでもよくなっていた。つい先程まですっかり忘れていたくらいなのだ。



 カウンターで無事チケットを購入すると、いよいよ元親は落ち着きをなくした。仕方がない。今日鑑賞しに来たのは、元親がもう何年も前から公開を楽しみにしていた作品だった。アニメとして放送されていたものがリメイクされたのだそうだ。当時、そのアニメをみた元親少年は幼心にいたく衝撃を受けたらしい。以来、ファンだという。映画化が発表されると同時にこの上なく真剣な表情で、行こうすぐ行こう、と迫られた。まだ公開日程も決まっていなかったというのに、だ。その迫力に負けて、これっぽっちも興味がなかったのにこうして連れられて来てしまった。
 買ってやった二人分のポップコーンとジュースを強引に押しつけて、シアターの座席へ腰を下ろす。辺りを見やれば、隣の席に腰を下ろす元親と同じく、どこかそわそわとした人ばかりだったから面食らった。まるで置いてけぼりにされたように感じる。

 皆が一方をそろって向いているのだ。一体どこを向いたらいいのか、何も知らないのは、自分だけか。

 ぎゅう、とアームレストに置いてあった手が力一杯握られた。自ずと身体が強張った。
「あ〜!緊張してきた!!」
 隣の元親が今にも地団駄を踏み、爪を立てて頭を掻きむしりそうな勢いだ。ほっと小さく、息を吐く。すぐにその手は離れてしまったが、じわじわと余韻の残る体温にひどく安心した。

 ちらりと窺った横顔が、スクリーンからの光に照らされてひどく綺麗に見える。映画が始まると、元親はこれ以上ないほど真剣に見入った。その証拠に、手に持ったポップコーンが口へ運ばれることなく長い間そのままだ。
 元親によって半ば無理矢理詰め込まれた事前知識は多少役に立ち、おかげでそれなりに映画を楽しめている。ストーリーがやや難解だが、おそらく元から親切に解説するつもりはないのだろう。それならそれで別の楽しみ方がある。前評判通り、演出は秀逸だった。そういった方面に疎くてもその質の高さは感じ取れる。悪くない。新しいもへの食いつきがいい元親の、好んでいる理由がわかる気がした。
 ただ、強いて言うのであれば、主人公の少年には共感しかねる。
 常に自信を失っていて優柔不断で、すぐ人に流され、そんな所が周囲を苛つかせるのに全く気がついておらず、そのくせ一丁前にプライドを持て余し、隙あらば殻に閉じこもる。そんな頼りない少年が世界の命運を握っているなんて、どれだけ考えてもぞっとしなかった。
 元親の手が宙を彷徨っていたから、黙って紙コップを握らせる。冷たさに驚いたのか、目を丸くしてこちらを向いた元親は視線が合うと、ありがと、と唇を動かしてにこりと笑った。そして再び、正面へ向き直る。
 物語は終盤。瞬きする暇すら惜しいのだろう。元親は食い入るようにスクリーンを見つめていた。
 暗闇の中、ぼんやりと浮かび上がる元親の肌の色が掛かった影と比べてあまりにも生白かったから、思わず手を伸ばしてしまいそうだった。

 意外にも元親は大人しかった。もっと興奮しているかと思いきや、どうやら無事見終わって胸一杯といった様子らしい。駅構内ののファーストフード店に腰を落ち着けたのはいいものの、この後について話し合うにはしばし時間を置いた方が良さそうだ。何度目かわからない溜め息をたっぷりと元親は吐いた。
「すごかったなぁ…」
「そうだな」
 どこらへんがどのように、という点はすっかり抜け落ちている。けれども元親が今感じているものはきっと言葉では言い表しづらいのだろうと勝手に解釈することにした。
 昼食にしては多少時間が遅い。だが、夕食にはまだ早い微妙な時間だ。どうしたものか。
 ぼんやりと考えていると、ようやく我に返った元親が空腹を訴える。この分だと、先程心ここにあらずな状態でぺろりと綺麗に平らげたハンバーガーの存在を忘れているに違いない。
「どっか食いにいくか」
「それもいいけど」
 政宗んち行きたい。
 そう言った元親は最後までジュースを飲み干すと、さっさとトレイを持って立ち上がった。慌てて遠ざかる背中を追う。
「俺、政宗んち好きなんだよなぁ。居心地がいい」
「…Thanks.」
 追いついて、並んで歩きながら改札を目指す。互いの足取りに迷いはない。何度も通い慣れた道だ。人にぶつからないよう避けて歩き、既にホームで待ちかまえていた電車に乗りこむ。休みとあってそれなりに乗客は多かった。思わず眉を顰める。誰とも知らない他人と肩が触れ合うのはどうしても好きになれない。  ふと何かが手の甲を掠めて訝しんでいると、するりと温かい指に絡め取られた。がたん、と規則的に揺れる車内。息の詰まるような人混みの中で密かに触れ合った掌が汗で滲んでくる。
 元親はずっと、窓から流れる景色を眺めていた。妙に心臓がうるさく感じる。



「なぁ」
「もう少し、もう少し」
 先を行く背中が妙に楽しげなのは気のせいだろうか。かたく結ばれた手が歩みに合わせてゆらゆら揺れる。  あれからずっと、互いの手は繋がれたまま。電車を降りてからもそのまま改札へ向かうものだから、慌てて定期をバッグから出して通るはめになった。周囲からの視線が気になったのは始めの数歩だけで、あとはぐいぐい腕を引く元親についていくので精一杯だった。
「着ーいた!」
 いきなり立ち止まった元親の背中にぶつかる。見上げてみればそこは自宅であるマンションだ。いつの間になんて思う暇もなく、急かされて玄関のロックを解除し、エレベーターに乗りこむ。鼻歌でも歌い出しそうな様子だ。二人だけしか居ない狭い箱が重力に逆らって急上昇する。ふわりと内臓が浮き上がるような感覚。何だか落ち着かない気分になった。間抜けな音を立てて扉が完全に開く前に、元親は器用に廊下へ身体を滑り込ませる。一瞬、繋いでいた手の力が緩んで、慌てて握り返した。
 鍵が開くと、元親はなんの躊躇いもなく部屋へと足を踏み入れる。途端、肩が外れるかと思うくらい強く引き寄せられた。
「ただいま」
 妙に声が近いと思ったら元親の顔が目の前にあった。がしりと頭を抱えられ、触れ合った鼻先でさらに擦り寄ってくる。くすぐったくて身動ぎすると柔らかく笑われた。
「ただいま」
「二人でただいまって、なんかおかしい感じがするな」
 背後でやかましく音を立てて扉が閉まる。まとわりつくような籠もった熱気が部屋の至る所に漂っていた。これだから夏の日に出かけるのは嫌いだ。
「あとは、好きなだけ」
 自身への呟きなのか、それともこちらへ向けた言葉なのか。元親の指先が項を辿り、交わす視線は徐々に距離を詰めていく。頬を伝う透明な汗が白い肌に沿って流れ落ち、シャツの首もとへ染みるのが目に映った。映画館で窺った時よりよっぽど生々しくて、安心する。
 背に回した腕を引き寄せて抱き締めた。決して重ならない互いの鼓動が今はもどかしい。
 そっと触れた唇の端が持ち上げられているのに、気がつかないふりをした。
















(2009/08/09)
(世界のはじまりにきみを見たい)
(世界の終わりにきみを見たい)
(きみの世界でぼくは死ぬ)
(きみの世界でぼくは死にたい)

似たり寄ったりですが、珍しくタイトル候補がたくさん出てきました。
ひとつ前に書いたのと何となくつながっているような。