Hide and Seek











 歩く度に体中が悲鳴をあげた。軋む節々と筋肉を叱咤しながら、元親はゆっくり階段を降りる。2階の踊り場まで降りると、腿ががくがくと力なく震えだし、悔しかったが手すりへ寄りかかった。誰もいないのを良いことに、そのまま一息吐く。腰を下ろすのも考えたが、立ち上がる際の苦労を天秤にかければ実行する気は一瞬で萎えた。
 昨夜は年甲斐もなく、まだまだ若さに任せて無理の利く政宗に、付き合ってしまった。しかし、これだけつらいのにも関わらず、思い返して胸中によみがえるのは甘く温かな感触だった。
 元親は苦笑する。詰まるところ、弱いのだ。抱き締めるとき、抱き締め返すとき、至福の表情を見せる彼に。
 なんとか降り終えると、すぐ傍にある自販機へポケットで弄っていた小銭を投入した。目当てだったコーヒーには、赤いランプが点灯している。
 売り切れだ。元親は、がくりと項垂れた。
 と。ぱた、ぱた。気怠げに歩く足音が、近づいてくる。
 その先は廊下が折れ曲がっていて見通すことはできないが、職員室のある棟から聞こえてくる。この時間は授業中だというのに。一体、誰だ?
 がたつく身体で元親が振り返れば、程なく人影が現れ気配を察したのだろう、顔を上げた。あらら、と間の抜けた声が廊下に響く。
「先生?奇遇だね」
「猿飛はサボり?」
 とは言ったものの、佐助の顔色が優れないことは一目見て分かった。頬は青白く、ふらふらした足取りは心許ない。佐助は並んで立つと、肩を竦めた。
「保健室追い出されちゃった。昨日は手加減無しだったから、まだ辛いんだけど」
「真田か。それは、まぁ、お疲れとしか言いようがねぇな」
「お互い様。先生は政だろ。アイツは執着するからさ、同情するよ」
 大体俺、政のこと、昔は嫌いだったんだ。
 平然と言ってのけた佐助を、思わず見下ろした。少しも悪びれた様子はない。
 元親は、釣り銭口に落ちていた小銭を再び入れ直すと、おごってやるから、と促した。にまにま、佐助が笑う。
 二人は連れだって、歯を食いしばりながら階段を登り、面談室へ向かった。








「初めて会ったのは、いつだったかなぁ。みんな、ガキんちょだったからね。町の剣道教室で政と、真田の旦那と知り合ったんだよ。その頃は、旦那のことも嫌いだったし」








 伊達政宗。
 知れば知るほど、佐助にとって好ましくないことばかりだった。
 隠された右目、不貞不貞しい左目。いつも噤まれた口は真一文字で、すぐに飽きてしまった。
 毛色が変わっているのは、漠然とだが感じ取っていた。何より、彼を連れてやって来た保護者の男も、やばい。頬に大きな傷痕があるわ、つり上がった目は目茶苦茶怖いわ、とどめはかっちり首元まで隙無く着こなされた黒スーツ。とても堅気には見えない。
 真正面から対峙して、危うく腰を抜かしそうになった。
「名前は?いくつ?どこ住んでんの?」
 佐助は彼の隣に腰を下ろす。
 しばらく待ったが、答えはない。周りの声援が耳をつくから聞こえなかったのか、ともう一度佐助が口を開こうとした、その時。
「…伊達、政宗」
 あ、ダメだ。
 佐助は直ぐさま、あっそうよろしく、と返し立ち上がる。次の手合わせに呼ばれたのは、幸いだった。離れながらちらりと窺えば、未だ膝を抱え小さく丸まり誰とも口を利こうとしない姿が見えた。舌打ちをしたくなる。
 これが俗に言う、生理的に受け付けないってやつか。面を身につけ、竹刀を握って小手の具合を確かめながら、佐助はようやっと思い当たった。
 それから一度も話していない。
 幸村は根気よく相手をしているようだが、そんな厚かましさにも苛ついていた。放っておいてほしいなら、そうしてやればいい。話したくないのなら、無理して引き出す必要もない。
 何でも自分の物差しで物事を測ろうとするから、幸村のことは以前から嫌いだった。
 政宗も政宗で、尚も佐助の勘に障り続けていた。
 敵わないのは十分わかっただろうに、それでも打ち負かされる度、悔しそうに睨みつけてくるのだ。それがもう気に入らなくて、完膚無きまで叩きつぶすこともしばしばだった。
 迎えに来たあの保護者が、痣だらけの政宗を心底心配そうにしていたが、政宗自身はただ佐助を一瞥して帰っていくだけ。
 その日は、季節外れの台風が町中を我が物顔で走っている日だった。
 朝はそれほどでもなかったのに、しばらくすると道場は強風でがたがたとそこらの戸が揺れ、雨は土砂降り、雷は地響きを連れて近づいてくる。練習は早々に切り上げられ、生徒は皆、急いで仕度を済ませ帰路に着いた。
 いつもなら道場を出る時間を調整し、決して被らないようにしていたが、今回ばかりは不可能だった。佐助と幸村、政宗の3人はそれぞれ、ほとんど同じ方角に自宅があった。
 幸村はこんな状況でも相変わらず、次から次へと政宗に話しかけている。
 それを努めて静観していた佐助だったが、さっぱり政宗が答えないこととスニーカーがびちゃびちゃに濡れたこと、合羽などほとんど意味が無いほど雨漏りしていること、おかげでパーカーが重たいこと、すべてにとことん腹が立って手頃な所にまず、噛みついた。
「…あーもう、ホントうるさい!」
 それを合図に、佐助と幸村の言い合いは始まった。ざあざあとやかましい雨音に負けず声を張り上げ、日頃の鬱憤をすべて吐き散らす。途中、互いの言うことが支離滅裂になっているのは自覚していたが、ここで止めては負けを認めるようで、意固地に口を開き続けた。手が出なかったことは、不幸中の幸いかもしれない。
 次の一手を思案するわずかな沈黙を破ったのは、間の抜けた、あっ、という幸村の声だった。
「さ、佐助!政宗がいない!」
「はぁ?」
 大概、自分も阿呆な声音をしていたと佐助は思う。
 先ほどまでそこで無表情に行く末を見守っていた、政宗の姿がない。慌てて見渡したが、びしゃり、とまるでストロボのような雷光が瞬いただけ。いない。唯一残されているのは、彼が肩に掛けていたエナメルバック。

「…政宗、政宗ー!」
「…返事してくれェ!」

 ふたりは顔を見合わせ、闇雲に叫びながら走りだそうとする。途端、すぐ脇の藪ががさりと揺れ、勢いをつけて何かが飛び出してきた。それは、驚いて強ばる佐助の手首を掴む。
 思わず、ぎゃあと悲鳴を上げる幸村の襟首を握り締めた。
「てつだってくれ、たのむ」
「政宗…?」
 消えた彼が抱えていたのは、血まみれで動かない子犬らしき塊だった。





「そこは大通りも近かったからさ、きっと車と接触しちゃったんだと思う。近くの公園に、3人で埋めたよ。ずっと子犬抱いてる政見てたら、ああ敵わねーや、なんて思ったんだ。で、嫌いとか、どうでもよくなって。それからだよ、3人でいるようになったのは」
 佐助の持つ紅茶の缶が、結露している。気が付けば、夏も間近だ。
 元親は着色料がふんだんに使われた炭酸飲料を、ごくりと飲み下した。
「政はいろいろと勘違いされやすいだけだって分かったし。現に、無視を決め込んでるって思ってたのは、単に日本語の意味を飲み込むのがスムーズにいかなかったからなんだって。ほら、あれでも帰国子女だから。英語圏の生活様式に慣れてた上、神経質な性格のせいで、昔は面白いほどずれてたよ」
「どーりで…。ここぞという時の思い切りはいいくせに、変なところで繊細なんだよな。アイツ」
 ほとんど空になった缶を弄りながら、佐助は楽しそうに笑んだ。
「それでも、甘やかせるだけ甘やかしてやりたくて仕方ないんでしょ」
「参ったことに、その通りだよ。でも、真田だって大概わがままだろ。どうしてんだ?」
「勘弁して欲しいけど、もう諦めることにした。ほら、噂をすればなんとやら。根っからの構ってもらいたがりだからさ」
 耳を澄ませば、軽やかに廊下を走る足音が聞こえる。それは面談室の前でぴたりと止まり、戸をノックする音へと変わった。備え付けの小さな窓から、人懐っこい幸村の顔が見える。
 見つかっちゃった。そう言う割には、残念がっている様子はない。佐助は引き戸まで歩み寄り、開けて寄りかかった。
「こんな所にいたのか。心配したぞ」
「誰のせいでしょうね、まったく」
 包み隠さない皮肉に、幸村は目に見えて焦り出す。仲睦まじいことだ。
 嘘を吐いていると思えないが、やはりこのふたりが仲違いをしていた時代など、元親には上手く想像出来なかった。脳内ですっかり背丈が縮んだ幼い頃の彼らと、目の前の彼らとを力任せにでも繋げようとするが、どうもしっくりいかない。元親は微かに首を傾げた。
 そうこうしている内に、一通りの遣り取りは済んでいたらしい。俺もう行くねありがとう、と佐助は空き缶を持った手を振ってみせる。
「そういえば先生、煙草やめたの?一本も吸ってないじゃん」
「ん?だってよ」



 吸い過ぎで、咳が止まらなくなったことがあってな、その時傍にいたアイツ、どうしたと思う?
 …人工呼吸してきやがったよ。死ぬかと思った。








 廊下中に大音量の笑い声を響かせて、ふたりは遠ざかっていく。あの調子だと間違いなく、政宗はここぞとばかりにからかわれるだろう。そして、その元を提供した自分がどうなってしまうのか、想像に難くない。
 もちろん聡い彼らは、二つ返事で政宗への言伝を頼まれてくれた。
 さぁ、どこに潜んでいようか。元親は顔を顰めながら立ち上がり、ゆっくり節々を伸ばした。口元は自然と綻んでくる。

「さて伊達くん。元親先生はどこでしょう?」
「もちろんノーヒントで探してください、だそうだ」
















(2007/06/02)
レキさんからリク頂きましたー。お待たせしました…!
右側同士が仲良くしてるの、私も好物なので楽しくてアレ当初の予定より遠い目をしてないぞ…アレレおかしいな!(誤魔化せない)
この後、伊達チカのふたりは必死で校内かくれんぼを実施します。幸佐はそれを眺めつつ、しばらくして飽きたらイチャイチャしながら帰宅です。
ありがとうございましたー!