*サンプル





 扉を開けたら、いつも通り。
 普段と何ら変わりない世界が待っていると信じていた。
 この瞬間までは。
「政宗?」
「ただいま」
 玄関と繋がっている、乱雑だった台所が住み始めてから見たこともないくらい綺麗に片付けられている。大人一人通るのがやっとのフローリングの廊下もワックスがけされているようだ。休日だった元親が一人で大掃除でもしたのだろうか。
 政宗は履き潰して汚れたスニーカーを脱ぎ捨てた。
「早かったな。どっかに寄ってくるかと思ってた」
「疲れたから真っ直ぐ帰って来た。アンタ、片付けの才能あったんだな」
 既に整理整頓の済んだ部屋を見渡し、政宗は賞賛を込めて口笛を吹く。ごちゃごちゃとした小物や降り積もった埃で見えなかった畳は数年ぶりにその姿を現し、万年床だった布団は隅に上げられていた。この部屋にベランダはないので、窓のカーテンレールには所狭しと洗濯物が干されている。
 そこら中からやわらかい日向の匂いがした。
「最後だから、全部綺麗にしてこうと思って」
 気になると言ったら、元親の足元にあるボストンバッグだろうか。初めて使っているのを見た。
 政宗は慎重にその場へ腰を下ろす。酷使した足腰はクタクタで力が入らない。一度横になったら起き上がれない自信があった。
「最後?」
「俺、出て行くから」
 意味を理解するまでに、しばらくの時間を要した。
 何か言わなければと思うものの一向に言葉は形にならない。政宗は滲んだ冷たい汗を掌ごと握り込んだ。背筋に寒気を感じる。飲み込んだ唾がからからに乾いた喉に引っかかった。
 見上げて目に入る元親からは何一つ読み取れない。
 ただ、つるりとした碧の瞳に狼狽する政宗自身の姿が映るだけだ。
「この部屋と、置いてあるモンは全部譲るよ。必要なかったら自由に処分してくれて構わない。俺が持ってた本とか、読んでもわかんねーだろ?回収に出す暇がなかったから。悪ぃけど捨てといてくれ。鍋敷きにしてもいいかもな」
「なにを…」
「二度とここには戻ってこない」
 ガン、と頭を殴られたような衝撃が政宗を襲う。思考は真っ白に塗り潰され、まともに働く気配がない。心臓が息苦しいほど脈打っていた。
 その間にも元親はボストンバッグを肩に担ぎ、部屋を一度見渡すと、玄関へ向かって歩き出す。
「元親」
 存外、自身の声が情けなく響いて笑えてくる。
 政宗は傍らを通り過ぎようとした元親の腕をとらえた。ぎこちなく指先が服の裾に縋りついているのをどこか他人事のように見る。立ち止まった元親が無感情にこちらを見下ろしてきた。
 続く言葉は、聞きたくない。
 耳を塞ぐため持ち上げた手に元親のそれが重なった。じんわりと伝わる温もりとは裏腹に、身の内は凍えそうなほど冷たい。
 細められた元親の右目が政宗を正面から見据えてくる。
「…お遊びの関係はこれで終いだ。伊達」
 するり、と。
 慣れ親しんだ体温があっさり離れていく。
 脱力した政宗の腕は重力に従ってその場に落ち、微かな痛みを訴えた。
 元親は、振り返らない。
 思わず畳に爪を立てて拳を握った。噛み締めた奥歯が嫌な音を立てる。
 真っ直ぐに伸ばされた背中がやがて玄関の向こうへ消えていく。大きな音を立てて閉ざされる、錆びついた古い扉が二人の間を完全に隔てた。唯一、最後まで耳へ届いていた元親の足音は徐々に速まり、あっという間に遠ざかっていってしまう。
 取り残された政宗はただ、呆然とするしかなかった。