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 夏が、好きだ。菜々の膝に頭を預けながら元親が言う。貸した本人は、いたく怪訝そうな顔をした。土佐の熱さに容易に打ち負かされる丈夫では決してない身体をして、一体何を言っているのか。元来真っ直ぐな気性で、嘘をつけない瞳が雄弁に語る。
「そうでございますか」
 ごわついてなかなか綺麗に梳けない髪へ指を通しながら、菜々がようやく答えた。
「殿は弥三郎と比べてもお身体は丈夫ではない様子。つられてあまり羽目を外されませぬよう、ご自愛下さいませ」
「あれと比べるのが悪い、特別なのだ。あれは違う」
 そうでしょう。ぷいと顔を背けた元親を見て、密かに思った。
 元親は年を重ねるにつれて奇人ぶりを持て余し、気難しい部分がより目に付くようになった。耳に入るところによると、家老たちも彼の頑固さには手を焼いていると聞く。天下への志と夢はとうの昔に敗れてしまった。のち残った行き場のない抜け殻の如き思いが、あらぬ方向へ駆け出して止まらないのは仕方ないことかも知れない。
 それをいちいち気にとめ、腹を立てる菜々もまた、老いたということだろうか。少し、面白くなく感じた。
「いかが致しましたか」
 唐突に元親は菜々の手を握り込む。
 これがあの風雲児と呼ばれた男。当時のような哀しみや哀愁こそたたえていないものの、まなこに覇気はなく濁っていた。
「…やつれたか?」
 愛おしむようにさすりながら尋ねる。そんなことはありませんよ、と菜々が微笑めば、頭が落ち着かない、と元親はぞんざいに言ってみせる。
「まあ!」
 繋いだ手は無造作に払われ、おまけとばかりにぴしゃりと叩かれた。なんとも言えない顔を元親が作る。それっきり機嫌を損ねてしまったのか、膝は貸したままでいてくれるもののそっぽを向かれてしまった。
 女とはよくわからぬ生き物よ。元親が溜息混じりに零せば、殿ほどではありませぬ、と刺々しい言の葉が飛んできた。会話はそこでしばらく途切れる。
 沈黙を破ったのは、元親の方だった。
「三途の川とは、ひとりで渡らねばならぬものらしい。臆病な俺には、無理だな」
 そんな話しぶりだから奇人と言われるのだ。菜々はひとりで納得し、視線を戻さないまま返す。
「そのようなこと、初めて耳にしました」
「そうか」
「けれども、親切な渡し守がいるとは聞き及んでおります。黄泉へいったなら、渡し守となるのも悪くないかもしれませんね。無事に殿をあちらの世まで案内いたしましょう」
 途端、元親の顔がぐしゃりと歪む。正直、菜々はぎょっとした。その後、絞り出された声にはもっと驚かされた。
「俺をおいていってしまうのか、菜々」
 なんて勝手な男だ。即座に膝を寄せて、頭を畳みに落としてやろうかと些か本気で考える。
 どちらがおいていっているものか。この男も息子も、自分たちだけ戦に征ってしまうというのに。けれども、口に出すのは拒まれた。曲がりなりにも、妻として女としての誇りは持っているつもりだ。
「それならば、先に逝った方が川のほとりでお待ちしたらいかがでしょう」
 努めて静かに提案すると、元親は一瞬顔を緩めかけるがすぐさま強ばらせた。
「しかし、区別が付かないやもしれぬ。ほとりは霧がひどいらしい」
「心配なさらずとも、菜々は殿のことなどすぐに分かります故。殿が先に逝ったなら、ひとり佇んで待つ貴方様にお声をかけましょう。絶対に間違えることなど致しません」
「逆に俺が探す身なれば?」
 そうですね、と菜々はいくらか思案する、ふりをする。瞬きもせず、元親はその答えを待った。笑いを堪えながらその様子を盗み見みた。
「とびきりの言葉をかけて下さいませ。もしそれが菜々ならば、抱きついて喜びます。あの世への旅路も苦しくなど」
 二人はいつの間やら、同じ庭先を眺めていた。葉は今、青々しく健やかに茂っている。まだ風はいくらか涼しいが、遅かれ早かれしばし待てばあの茹だるような熱さがこの島国にやって来るはずだ。
 あら、と菜々は小さく呟く。首を傾げてみせると、
「草の匂いがいたします」
 もうそんな季節なのですね、と元親の髪をまた撫でつけ始めた。言われて鼻を鳴らせば、菜々が纏う香の合間に懐かしい匂いが届く。
「ふむ」
 しかし、女とはわからぬものよ。ついさっきまで仏頂面に顔を歪ませていたというのに。
「とびきりの言葉、か」
「よくよく考えてくださいませ」





 その後、幾度も同じ夏は巡りまわり、慶長四年。とうとう元親は病に倒れる。
 臨終の間際、唯一彼が願ったことは、床に伏せった己が身を起こし縁側に向かうことだった。無論、ひとりの力では半身を持ち上げることすらままならず、枕元にいた家臣に手を借りるとその瞼がおちるまでの限られた時間、外を眺め続けた。昨日降った雨が微かにそのつゆを残し、いっそう草木の青さを際だたせていた。
 辞世の句は残されていない。現世で残す言葉などもう無し、と彼自身が頑なに拒んだからだ。

 温かくも冷たくもない風が吹き、夏草の匂いが鼻を擽る日のことだった。















(2006/08/03)
夏草の賦が好きです。長曾我部一家大好き!
感情移入してしまうのか、読み切る頃には涙まみれで酷いことになります。歴史は偉大だ。