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妙に視界が広い。おかしく思い、考えも無しに右目に手を伸ばして、驚愕した。迫る指先、見える掌の皺、瞼ごしに弾力のある球体。
目玉だ。
眼帯はどこへやったのか、ほんの一瞬考えた。しかし、痘痕の感触はないし、そもそも目玉があるのだから見栄えは良い筈で、必要ないだろう。不思議な心持ちで、落ち着かない自分に気が付く。
そういえばここはどこだ。見回してみても覚えのない土地だった。芳しい匂いのする丈の短い草が生えそろい、それはずっと向こうまで続いている。踏みしめれば裸足に心地良く、しゃなりと音がした。着流ししか身につけていないが寒くはなく、ちょうどいい案配だ。
当てもなく、取り敢えず向いていた方へ真っ直ぐ歩く、歩く。身体はかるい。歩く、歩く。
疲れは感じないものの、同じ景色が際限なく続き、おそらく半刻を過ぎたであろう頃にはすっかり飽いてしまった。政宗は立ち止まり、ごろりと寝転がった。そして目を瞑ると前触れもなく、いまわの際のことを思い起こす。見慣れた私室の天井に視線を泳がせ、臥せる老身。そうだ、自分は死んだのだった。
あっという間の人生であった、などという戯れ言は今だからこそ漏らせるもので、当時は思わせぶりに流れる時間に舌打ちさえした。とにかく無我夢中で、それ以外この隻眼には入りきらなかった。
あぁ、忘れてきたものでいっぱいだ。現世に遺してきたもの、浮世で別たれたもの。全て取り溢れてしまった。いっそ清々しいほどに、身軽だ。何も気にとめることなどない。この肩に背負っていたものが、これほどまで重かったとは知らなんだ。感じたことのない類の高揚感に、胸が熱くなった。これが誇りなら、遮二無二生きてきた意味を見いだすこともできるというものだ。
しゃなり。ずいぶんと近いところで音がした。
またひとり、よみへと招かれたどこぞの御仁だろうか。政宗の耳は、すうっ、と息を吸い込む音を拾った。
「曇りなき心の月をさき立てて浮世の闇を照らしてぞ行く、か」
随分と懐かしい声がする。優しく響く低い声。直ぐさま飛び起きてその姿を目にしたいのに、身体が意志に反して凝り固まり指の一本も動かせなかった。閉じられた瞼だけがぶるぶる震える。
「この上なくお前らしい歌だ。誰ひとりとして、突き進むお前を止められたためしがないからな」
辺りの空気が動いて、政宗は彼がしゃがみ込んだのを知ると、額と目を包むように手が当てられた。
あぁ忘れるものか!心の内で叫ぶ。失くしてから気が遠くなるほどずっと、何度も感触を反芻して、せめてこれだけは忘れてなるものかと刻み込んできた。
「久しいな。ずっと見ていたよ」
動け動け、急かしてなんとか触れようと自分の手を持ち上げる。ようやっと当てられた彼の手に自分のそれを重ね合わせ、くしゃくしゃと内のどこかが政宗は歪むのを感じた。堪えて、苦々しく吐き出す。
「ひとりで物見遊山とは、大した御身分だ」
「あぁ」
「俺だけが余計に年をとったじゃねぇか」
「いい男になったんだろ?」
彼が鼻に掛けて笑った。当たり前だ、と政宗も力なく笑う。
「…俺を、おいていきやがって」
返そうと彼が口を開けると、遮るように政宗の首が振られた。もう身体の自由はきくようだ。ゆっくりと起きあがり、彼に向き直り、最後に瞼を上げることにした。
こちらの世へ送られるのを確信した時、彼が待っているのなら野心の途中道でも構わないと柄にもなく思った。ついに揃った目に映るのは、もう長い間求めて求めて仕方なかった愛しさそのものだ。
「どうしようもなく、会いたかった」
右目が流れる涙でしみた。
(2006/08/03)
随分と前から、史実でも伊達政宗という男が好きなようです。