胎で眠る浄火











 幸村に呼ばれて、少し離れた彼の邸へ足を運ぶと、何故か落ち着かない様子で出迎えてくれた。草履まで揃えてくれそうになるものだから、いいよ自分でやれる、とやんわり断る。
「どうしたのさ?いつも以上に挙動不審」
「これが落ち着いていられるか、いいから早く来い!」
 そう言って、まだ立ち上がっていない佐助をぐいと引っ張り、奥へと向かった。今日の旦那は一際可笑しい。転ばないように歩調を合わせ、佐助は思う。
 だしだしと素足が床板を蹴り、並んだ障子たちの或るひとつを幸村は開け放った。そして
「佐助が来たぞ!」
 と、まるで褒美か何かのように、馬鹿力を駆使して佐助の身体を目の前へ押し出す。せっかく着替えてきたのに、着付けがずれてしまった。帯もしめ直さなければ。はぁ、ため息をつく。くすりと笑われた。
「あらあら幸村様。佐助様が苦しそうでございますよ?」
「なにっ」
「旦那〜いくら俺でももうちょっと丁重に扱ってくれてもよくない?」
 その部屋には、腹を大きくした若い女中ともうひとり、初老を迎えた女中が腰を下ろし、一連の遣り取りに耐えきれず顔を見合わせて笑みを零していた。なるほど、呼ばれた理由はこれか。
 やっと幸村から解放され気持ち程度襟元を正すと、佐助は改めて顔も見知った彼女らと挨拶を交わす。
 いつも世話かけてるねぇいえいえそんな佐助様こそいやいや仕事だし私らも仕事でございますそうだねぇ。
「佐助!何故そう落ち着いていられる!」
 今にも頭を掻きむしりそうな勢いで、ひとり、幸村は声を荒げた。
「…はぁ。だって俺も旦那も焦るところじゃないよ。それとも何、彼女が宿したのは旦那の子?」
 予想通りの言葉を真っ赤な顔で力一杯叫ぶ年若き主に、今度こそ女中二人は吹き出してしまった。
 さすがでございますね。佐助は、彼女らなりの褒め言葉を複雑な気持ちで受け取る。



 幸村の邸で雇っていた女中のひとりが身籠もった。とうとう産み月になったので、暇に入る前になじみの深い顔を見せておこうと佐助を呼んだのだと言う。
「へぇ、旦那も気が利くもんだ。予定はいつ?」
「月の終わりには」
「もっと早くから休んでもいいと言ったのだが…」
「旦那が頼りないからじゃない?」
 ぐぅ、と押し黙った幸村を見て、また女中達は笑う。ちょっとだけ、いい気分だ。
「しかしすごいね、女の人って。その中に人間が入ってるだなんて」
「信じられぬ。拙者もそうして生まれてきたのでござるな…痛くはないのか?」
「ちょっと旦那、やめなよ。痛んだら産まれちゃうだろ」
「しかし、こんなに膨らんだら」
「俺たち男の身体で考えたらそうだろうけど」
 どうなのだ?と幸村が問い掛ければ、彼女は頬をゆるめて、そんなに心配されずとも大丈夫ですよ、と答えた。
 幼子に噛んで言い含めるようなその様子から、既に母親らしき温かなものが感じられる。母を知らない佐助にでも分かった。彼女はこれから子を産み、母親になる。
 胸のどこかがこぞばゆいような痛むような、おかしな感じがした。
「幸村様、お願いがあるのです。どうかこの子に触っては頂けないでしょうか」
 愛おしそうに腹を撫でながら彼女は言う。
「男子でも女子でも、幸村様の元気を分けて貰いたく思いまして」
「そういうものなのか。あいわかった、拙者で良いのならいくらでも」
 大仰なほど背を伸ばし姿勢を正す。そしてそろそろと、いっそ呆れてしまうほど慎重に手を伸ばした。壊れ物を扱うように、ほとんど触れない程度の愛撫。ゆっくりと手を離しぽかんとした幸村が、もう一度いいか?と尋ねる。
「どうぞ、お願いします」
 今度はいくらか緊張が解れたようで、先程より迷いがなかった。大きく手のひらを広げて、どこまでも優しく撫でる。
 佐助には儀式めいているように見えて、幸村にひどくお似合いだと思った。
 彼の欠片が触れあった腹より浸透して、胎で眠る子に分けられていく。真っ直ぐで、熱の塊のような彼の欠片が。あまりの熱さに胎児は灼けてしまわないだろうか、考えてすぐ打ち消した。幸村が纏う紅蓮は、ただ無慈悲に万物全てを灼き尽くしていく炎ではないというのに。言うなれば浄化の炎だ。飛び込めばいとも簡単に汚れは灰になる。
 ならば、己はどうだ?考えるのも馬鹿らしい。
「佐助様。佐助様もどうか」
 女中と幸村が穏やかに微笑んでいた。
「いや、今日は止めた方がいいよ。俺の手、冷たいから、ね」
 らしくない。胸に湧き起こることを、口巧者の筈の自分が語る術を持ち得ないとは。無意識に身体の後ろへ腕ごと隠し、ゆるゆると頭を振る。
「佐助」
 要らない考えごとに耽っていたせいか、名前を呼ばれ、のぞき込まれたのに気がつけなかった。あ、という間もなく手を掴まれ、冷たくなどないではないか、と幸村は顔を顰める。いつも通りの無遠慮な振る舞いだが、今の自分は至極腹が立ったらしい。
「冷たいよ、心底ね。なんたって俺は忍だ」
 大人げない言い方をした。
 その瞬間幸村は眉間に深い皺を刻む。掴んでいた手にも力がこもり皮膚が捩れて痛かったが、堪えて佐助は温度のない目を向けた。衝動的な怒りを抑えているのか、幸村の身体は小刻みに震えている。
「…幸村様、佐助様。お戯れはそこまでにして下さいませ。孕んだ身体には周りのいざこざも毒でござ」
「あっ」
 見かねた初老の女中が窘める最中だった。苦笑いをしていた若い方が短く叫び、腹を押さえて蹲る。
 これに一番驚いたのは幸村と佐助で、思わず互いを振り払って彼女に走り寄った。しかしどうして良いのかも分からず、意味もなく彼女の身体をさすってみる、医者を呼ぶか大丈夫かと声をかけてみる。大の男がふたりで、情けないことだ。
「…動いた」
「へ?」
「なに?」
 つい先刻まで睨みあっていた彼らが、今度は息を合わせてほぼ同時に耳を傾ける。女中たちはまた笑ってしまった。
「腹の子が、せっかく良い気分なのだから仲違いなど無粋なことはするな、と母の腹を痛いくらい蹴りながら言っております」
 佐助と幸村は顔を見合わせる。一本取られた。ふたりはごろりと畳の上に寝転がって、参ったなぁ、と零す。
「しかし、もう産み月だというのに痛いほど動いたのですか」
「旦那の元気、もらいすぎたんじゃないの?」
 初老の女中の言葉に、佐助は手足を伸ばしたまま返した。してやったり、彼女の口元が今まで見たことのないくらい、楽しそうにつり上がるのを目にする。
「それでは、やはり佐助様に触れて頂かなければ。身体が頑丈なだけではいけません、思慮深さも必要となるでしょう。幸村様の元気と、佐助様の賢さ。お二人の良いところを兼ね備えた子が産まれたなら」
「それほど嬉しいことはありませんわ。きっと時代に負けない、強い子が育ちますね」
「えぇえぇ、そうでしょう。武田の天下にさぞや貢献することの出来る子になるでしょう」
 もう佐助が言い返せる余地はなかった。幸村も、今度は両手で佐助の右手を包み、これで冷たくないだろう、と言う。起きあがった佐助はひとりごちた。
「そういうことじゃないんだけどなぁ…」
「ならば」
 怯えたように一度、震える手を取って、繋いだまま子を宿す腹へと触れる。
 理由も分からないのに泣きたくなり、佐助は歯を噛みしめて耐えた。全身の力が抜ける。このぴんと張った薄い肉の向こうには小さくて無力な、しかしそれでも確かに生命があって、もう何十年もすれば今の自分のような形の人間ができあがるのだろう。途中、何度泣き、何度怒り、何度笑うのだろう。
 幸村の手の温かさと手に伝わってくる胎児の振動とが、佐助を揺さぶった。ふたりは腹に耳を近づけ、目を瞑る。
 佐助の耳は、母親の体中を流れる血液の音とはまた違う、微かだが力強い気配を感じ取った。これより生まれる命の息吹だ。幸村にも聞こえているだろうか、ふとそんなことを思った。
「ずいぶんと大きな子どもたちですこと」
「こんな母で良いのなら光栄です。今度生まれるのは弟か妹か、楽しみですね」





 見送りは断っていたが幸村が頑固に聞かないため、それなら表まで、と若い女中が妥協した。他愛ない話をしながら門に着くと、既に待っていた迎えの者に幸村と佐助は荷物を渡す。
「ありがとうございました」
「こちらこそ礼を言わなければいけないでござる。たくさん世話になった。ゆるりと静養せよ」
 深々と頭を下げる女中が、自分の方を向き直ったのを見て、佐助は慌てて制した。
「俺には礼なんて必要ないって。その代わりにでも、旦那様に良くしてもらいなよ。優しい旦那様なんだろ?」
 それはそれは嬉しそうな顔をして、こくりと頷くと彼女はふたりの手を握る。今度は自分に願掛けだという。
「幸村様のようなお強い、母になれますように。佐助様のような気が利いた、妻になれますように」

 おふたりのような優しいひとに、なれますように。

 よっぽど前に彼女の姿は道の向こうに消えてしまったが、幸村も佐助もその場から離れられないでいた。かぁかぁ、暢気な声で鴉が鳴く。ふと幸村が口を開いた。
「身の回りが落ち着いたらまた帰ってきてくれるのだそうだ。よかったな」
「そうだね」
「腹の子はきっと立派に育つ。この世の熱さと冷たさを知った」
「そう、だといいな」
 幸村は自分の手を見つめる。
「引き継ぐのは乱世ではなく天下太平を」
 その言葉に、佐助はゆっくりと向き直った。
「約束したのだ、先程。佐助は何を誓ったのだ?」
「さぁなんだろね?気が早いよ、旦那は」
 紅蓮に灼かれて灰になる、それはそれで一向構うことはない。けれども我が侭を言うなら、この身に絡めて黒く染まった氷を融かしてやりたいのだ。それが次代への灯火となったなら尚良い。
 もしあの子にまた会う機会があるなら、伝えたいことが山ほどある。自分の口からでなくとも。
「また小難しいことを考えているな。それでは夕飯が不味くなってしまう、せっかく仕度をしてくれているというのに」
 もう終いでござる、と幸村が邸に帰ろうとする。
 佐助はその背中を見て、握られた自分の手を見て、しょうがなく笑った。
「御馳走してくれるの旦那。今日のおかずは何かな」















(2006/03/13)
さぁもえろ。もえてもえて灰になれ。