愛といへばあなた











 湿り気のある空気を含んだ布団が、いやに重く感じられた。しとしと、と降る雨は長いあいだ止まず、ただ伏せるしかない元親の気分はここぞとばかりに滅入って仕方ない。縁側の障子はほんの少しだけ開いていた。切り取られた空の一部は、厚い雲で覆われ、今にも自重で落ちてきそうだ。隠された太陽の光は、この部屋へ一筋も届かない。見上げる天井の色もどす黒く映え、闇が広がり、蠢き、粘る。
 ぼたり。ぬらりと艶のある闇が、ひとしずく。
 垂れる雫は、まるで太陽のような橙の色を漂わせ、音もなく枕元へ降り立った。
「やあ。調子はどう?」
「ああ佐助」
 短く答え、いくらか苦労して元親が半身を起こした。そっと肩に添えられたのは、佐助の腕だ。礼を言い、茶でも持ってこさせようと口を開けるが、しぃ、と立てた人差し指で阻まれてしまった。
 互いを見合って、苦笑する。
「ねえ。…伊達に逢いに行きなよ。しばらくご無沙汰なんだろう?」
 枕元にしゃがむ佐助へ、元親が返したのは困ったように眉尻を下げた笑顔だった。ゆるゆると、力なく頭を振られる。
 ありがとよ。そう言って、俯いてしまった。
 佐助は顔を顰め、ほんの少しの間考えを巡らすと、再び口を開く。
「忍びの道教えてあげる。そうすれば、何倍も早く奥州へ着けるだろ。心配しなくとも、そこまでの船も手配する。それくらい朝飯前」
 元親の唇はより一層、噛みしめられた。ぱさりぱさり、首の動きに合わせて襟足が白く細いうなじを擦っていく。何度も何度も、繰り返し。
「無理だ」
 震える口元から発せられたとは到底思えない、凜とした声。
 いよいよ佐助の眉間の皺は深くなった。
「なんで」
 元親は答える代わり、掻き抱くように佐助を抱擁した。
 呆然としてそれを受け止めながら、回された彼の腕が随分細くなっていることに気が付く。いつだったか、冗談で抱き合った時に感じられた力強さは、もうここへ存在していなかった。あれだけ逞しかった胸板も、今では自分ほどしかない。たったこれだけの動作で、耳元に触れる彼の息は上がっていた。
 なぁ、逢いに行けよ。
 骨の浮いた背を撫でてやりながら、佐助は性懲りもなく続ける。

「まさか、逢いたくないの?」
「逢いてぇよ。いますぐ」








 かぁ。








 微睡んでいた意識は唐突に晴れ、放って置いた筆が乾いていることに気が付く。目の前で白紙のまま進まない文を見、またやっちまった、と政宗は独りごちた。
 せめて名だけでも、と再び筆を手に取ろうとする。
 かぁ。
 外から間の抜けた、か細い声が聞こえた。どこにでも空気の読めないヤツはいたもんだ、と無視を決め込んで真っさらな紙面を整えるように撫でるが、かぁかぁ、政宗の気など知らず鳥は小さく鳴き続ける。
 かぁ、かぁ、かぁ。
 音を立てて硯へ筆を捨て置き、政宗は立ち上がった。
 空気が流れ、ゆらりと点された蝋燭の火が揺らぐ。壁へ色濃く映る影も、つられてぐにゃりと折れ曲がった。とっくに夜は更けている。
 政宗は障子を開け放ち、おそらく庭の木に留まっているだろうとんまな鳥を逃がそうと、大きく口を開けた。が、そこから声が放たれることはなく、代わりにびくりと身を竦ませた政宗の足はもつれ、2,3歩後退る。なんとか転げることは避け、飛び出しかけた悲鳴もすんでの所で飲み込んだ。
「…“かぁ”、なんてね」
 上下逆さまにひょっこりと顔を出した佐助と、至近距離で目が合う。
 佐助は危なげなく、ひらりと宙で翻り降り立った。流石だ、体重など一切感じさせない身のこなし。床の軋む音さえ、聞こえない。ぱたぱたと気持ち程度、裾のごみを払う間に政宗は部屋へと踵を返し、湯飲みに残っていたすっかり冷えた茶を勢いよく飲み下していた。
 何しに来やがった猿飛。口元を乱暴に拭い、剣呑とした視線で問う。
 うん。佐助は、いくらかずれた返答をした。敷居を跨ぎ足を踏み入れると、後ろ手にゆっくりと障子を閉める。小さな明かりが再び揺れ、佐助の顔に影を落とした。
「四国の旦那からの預かりものだ」
「な…?」
「大事にしてやってくれよ」
 それ以上問うことを拒み、苦笑に歪んだ唇が『声』を紡ぐ。それは、安堵を匂わせたため息から始まった。
『佐助、後生だから、すべて間違いなく届けてくれよ。じゃないと、あいつが拗ねるからな。…ははっ、任せたぜ』
 唯一の瞳を限界まで見開き、政宗は震えようとする肩へ爪を立てる。



 政宗。
 お前の文、いつも楽しみにしていたよ。
 返せなくて悪ぃな。伝えたいことは、もどかしいほどあるんだ。それなのに…。
 さぁ、何を話そうか。
 いざ言葉にしようとすると、なかなか出てこないもんなんだな。
 思えば、俺はお前から与えられるのを、ただ阿呆みたく待っているだけだったのかもしれねぇ。
 ならば俺はせめて、お前の支えとなれたか?…まったく、自信が持てねぇよ。
 お前が初めて涙を見せた時だって、俺は抱き締めるしかしてやれなかったろ。本当はもっと気の利いたことでもやって、「もう淋しがる必要なんて欠片もねぇよ」そう言えれば良かった。
 今になって思いつくなんて、悲しいよな。
 お前は覚えてないだろうし、俺はやり直すことを許されていない。
 それでもお前は強いから、零れて見失った分の愛とか温かさとかいったものをこれからも拾い集めて、皆に与えていくんだよ。
 俺はもう充分貰ったから…代わりに、そんなお前とずっと寄り添っていきたかったが…。
 …たとえ最後のさいごに悲しくても、出逢えたことを、後悔、するわけない、だろ…。
 お前ってやつは、俺の深いところまで侵食して、根を張ってるんだ…。
 ……。
 ま…、あ…



 掠れる吐息を最後に、『声』は闇へ霧散し、跡形もなく消え去った。
 耐えきれず政宗は、おい、と不機嫌に先を促したが、佐助は軽く目を伏せ首を振る。
「続きは?」
「ない」
 これでおしまいさ。
 途端、政宗はほとんど真っさらな文をぐしゃりと握りつぶし、部屋の隅へと投げ捨てた。髪を振り乱した政宗は、力任せに掌を顔へ押しつける。
 もとちか、と呻くのが聞こえた。
 肩を震わせ、泣きじゃくる政宗をしばらく傍観していた佐助は、音もなく歩み寄ると膝をつき、そっと抱き込む。躊躇はあったが、それ以上の慰め方を知らなかった。
 泣き続ける政宗へ回した腕に力を込め、時折やさしく髪を撫でつける。





 それは奇しくも今は亡き主だった或る男の仕草そのもので、佐助は自身に染みついた彼の面影を、懐かしく思い出していた。
















(2007/06/14)