別れ路











 生暖かくて湿ったものが顔を這う感触に幸村はふと重たい瞼を持ち上げた。しかしどうしてこんなに暗い朝になったのではないかこれはなんだ、とだらだら思案する途中で、今は夜中で佐助が自分に跨っていることにやっと気が付く。その顔は真っ暗にしか見えなかったが、おかしなことに口先からのぞいた濡れる舌だけは目についた。
 一気に意識は覚醒し驚き慌てて、名前を呼ぼうとするが、優しくも冷たい手に頬を包み込まれ接吻されると、ふさがれた口からすべていとも容易く飲み込まれてしまう。やや放心でいると、ふ、と佐助が微かに笑った気がした。



 気配を消した夜這いに答えた時点で、相手の思惑通りだ。完璧にほだされている自覚もある。けれども一度点ってしまった火は消しようがなく。
 知り尽くした身体を念入りに愛でていけば、めずらしく佐助の方が焦れた。なにゆえ急ぐ、と目の前の細い身体を限界までたわめて幸村が問えば、苦しそうな切れ切れの息の中で、そんなに可笑しいかい、と逆に問い返された。
「おかしい」
 正直に答える。
 すると滅多に見せない阿呆面を数瞬晒し、佐助は投げ出していた腕で覆うと、肩を震わせて笑い出した。
 そして、呟く。
「そんなに真っ直ぐ生きていて、いっそ、羨ましいじゃないか」
 その真意を問おうと幸村が眉をひそめれば、大人しく組み敷かれていた四肢に、ありったけの力が込められた。
 押しのけられた幸村の身体がそのまま、勢いに任せて倒れ込む。したたかに背中を畳へ打ち付けた。短く呻いて身動げば佐助がするりと寄り添い、うつぶせる身体の上に体重を乗せる。
 背骨に沿って、舌が這った。ぞくり、と幸村は震える。先刻まで佐助の中に擦り込んでいた香油が、垂れ流れて背を濡らした。
「旦那」
 はやく、はやく。せがむように腰を擦りつけ、ねだるように口付けを交わし、貪欲にただただ繋がりたいと。
 あとは互いに、一切なにも考える必要がなかった。
 思考は本能に支配され、いくら果ててもいっこうに満たされず。求めるまま、求められるまま、獣じみた情を繰り返し交わし合う。途中、幸村が身につけたままだった六銭文に佐助の手が掛かり紐が切れ、ばらばらと床へ散ったのにも気をまわすことが出来ないほどだった。その中の一銭は力なく開かれた佐助の掌に収まり、その掌は幸村の指で縫いつけられる。どちらの唇も、ひたすら相手の名を呼ぶばかり。おそらく、果て、などある筈もない行為だ。



 限度を超えた疲労にいつしか意識は沈み込み、朝を迎えれば隣の温もりはもう、跡形もなく消え失せていた。
 悲鳴をあげる身体を起こし、あまりにも何も残っていないのだから昨夜の事はすべて夢だったのではないか、と幸村はひとり思う。生々しく未だ燻っている情の余韻と、厳しい忍の戦によって摩耗した爪でつけられた傷がじりじりとこの身を灼く痛み。それだけが、なにもかもを証明していた。
 あの六文銭は結び直され、きちんと畳まれた着物の上に置かれている。
「む…?」
 困ったことに、銭は一文足りなかった。
 ないものは仕方ない。代わりに昨夜から佐助が纏っていた、雰囲気のようなものはなんだったか考える。とても馴染み深く、嗅ぎ慣れたにおいだった気がした。




















 よもや、これが最後の逢瀬とはなるまい。




















 後々、鋭すぎた自身の勘に幸村は言の葉を失う。心の柔らかい部分は容赦なく千々に引き裂かれた。
 待ちわびて数日、かえってきたのは右腕だけだった。
 踏みにじられたのか、特徴的な忍服の切れ端も色を失った肌も泥にまみれ、指はあらぬ方向をさしていた。肉は火傷でただれ、削げ落ちている。
 膝をつき胸にその腕を抱きとめ、持ち主だった者の名を呼びながら、幸村は忍び泣く。

 長い長い哀しみの咆吼が、そこにいる誰もの耳を劈く幻を見た。
















(2006/06/14)
死ぬほど泣いて忘れて頂戴よ、ね? きっともう、二度と会えないんだからさ。