先生と俺04


*学園設定ですがこのシリーズだけ伊達が生徒、元親が教師となっています。
 尚、CPは変わらず伊達チカです。









 蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく流れてくる。洗おうと差し出した手にはねて、ワイシャツの腹が濡れた。
 あとは小テストの採点を残すばかり。元親が手をぶるぶる振る。目の前に備えられてある鏡に水滴が飛んだ。映る歪んだ自分は、欠伸をしている。寝不足続きで目の下の隈もなかなか消えていなかった。
 ハンカチは、尻のポケットでくしゃくしゃだ。洗い忘れではない、断じて。けれどもあくまで自然乾燥が自分流儀だ、と言い張ってみる。





 職員トイレを出て、すぐの階段を3階まで上った。背番号のないユニフォームを着た野球部員の集団が向こうからやってくる。彼らに轢かれる前に、面談室のドアを急いで開け身を滑り込ませた。
 丁度入り口からまっすぐ見える窓は、夕方になると真っ赤な陽で染められる。赴任して、初めてこの光景を見たときの衝撃は何年経っても忘れていなかった。赤しか映さない窓。
 太陽の死と共に、一日は終わる。つまらない大学の講義でそんなことを聞いたような、聞いていないような。それを差し引いても、断末魔とも例えられる最期の夕陽は言いようがないほど見事で、目に痛いくらいだ。白すぎる自分の肌に、赤の色がのると理由もなく嬉しくなったのは幼い頃の話。偶然にも、学校から沈む熱の塊へ向かって鼻歌交じりに歩けば程なく家に着いた。
 懐かしく思いを馳せていれば、その圧倒的な光が人影で欠けていたことにしばらくの間気がつけなかった。こちらをむいていた背はゆっくり反転する。見えた顔は、太陽を背負っているせいで真っ暗だ。
「よぅ」
 あ。聞き慣れた声は掠れていた。
 元親の、半端に踏み出された左足が右足のサンダルを踏む。ぐらりと身体が傾ぐと、無様に膝を床へ打ち付けた。痛むところをさすりながらよくよく考えれば、どうして自分の方が気まずさを抱えるのか分からない。本来引け目を感じるのはおそらく、目の前に立つ政宗の方だというのに。
 政宗は仕方ないといった顔で笑う。
「大丈夫かよ。安心しな、今日は何にもする気が起きない」
 そう言って、苦しそうに鼻を啜った。涙目で、頬は赤い。
「欠席じゃなかったのか。俺の数学、いなかったろ」
「診察のあと、遅れて来たんだよ」
「いつ?」
 政宗はソファに腰掛けて、頭をかいた。
「…ついさっき。6限間に合わなかった」
「それなら無理すんなよ。まだ熱あるんだろ?ひどい具合だって聞いてる」
 元親が手頃なパイプ椅子を引き寄せ、意味もなくテーブルの上のテストを整理し、落ち着かない様子で胸ポケットを探る。たばこ、煙草はどこだ。
「だって、アンタに会いたかったし。そうすりゃ風邪なんてとっくに治ってる」
 百均で買ったライターが転がり出てくる。落とさないように気を遣ったから、まともに答えられなかったんだ。そうしておこう。
 代わりに、今度は元親から尋ねた。ずっと留まって消えることのなかった疑問だ。
「なぁ、この前のって」
「うん」
 もっとましな言い方を思いつけないのか、と自身を恨めしく思う。心の中で舌打ちをしたが、もう手遅れだ。
「なにか深い意味、なんて」
「どう、思う?」
「…え」
 だから、なんで俺がしどろもどろしてんだ。
 元親は、ふとすれば挫けそうになる気持ちを無理矢理奮い立たせる。
「やっぱさ、冗、談?だよ、な」
 一瞬、視線を政宗から離した隙の出来事だった。
 どう見ても、細さと力強さがアンバランスな政宗の両腕に突如襟元をつまみ上げられて、椅子から尻が浮く。そのままいくらか歩かされ、膝裏にソファが当たると手を離された。ぼすん、とそれなりに上等だったらしいクッションは音を立てて沈む。
 一向に現状を飲み込もうとしない思考を無視して、政宗は元親の膝を跨いで割り込み、その上に腰をおろした。余った色の薄い髪の毛を耳へかけ梳いてやりながら、後頭部を片手で押さえ込み、逃がさない気だ。
「本気で腹立った」
 掠れた声が不機嫌に吐き出される。元親の開いた口は塞がらない。
 教室の外、そうも離れていないところで、誰かの声がするような。
「こっちはどれだけ勇気を振り絞ったと思ってるんだ。それだけでも情けないのに、挙げ句冗談だって?ガキの言うことだからって、舐めてんじゃねぇよ」
 その声は徐々に近づいてくるようだ。微かに、元親先生、と聞こえる気がする。
 しかし、政宗が離れる素振りは見られない。元親の心臓は一層速く強く刻む。見つめ合った顔をそらすことも出来ないまま。夕日が眩しく、正面から肌を染めるのをずっと眺めていた。
 誰だ、探しているのは?今日見回りの先生は、誰だっけ?
 政宗が、ゆっくりと声を紡ぐ。








 がらり、と騒がしい音を立てて面談室の扉が開いた。
「あぁこんなところにいたんですね、元親先生。返事くらいしたらいかがですか」
「あ、明智先生…?」
 白衣を着た生物担当の明智は、よく分からない笑みを浮かべ、病的に白い指で呆けた元親の向こうを指した。ぎくりとして辺りを見回しても、政宗の姿は見えない。
「窓の鍵、よろしくお願いしますね」
 それだけ言うと、何が可笑しいのか噛み殺した笑いを零しながら行ってしまった。変わり者と噂されるだけある。インパクトは文句なし、だ。嫌な汗が引くのを感じる。十分気配がしなくなったのを確認して、元親はやっと溜めていた息を零した。
「…焦ったー…!」
 背もたれの裏からは、だっせー、と鼻で笑った声が聞こえる。のぞき込むと、政宗がしゃがみ込み器用に隠れていた。目が合うと途端に元親は脱力し、ずり落ちる。



「なぁ。さっきのって?」
「分からない問題を教えてくれとでも聞こえたか?」
 乱れた襟を弄りながら、それはありえねぇ、と元親は返した。けれども、だ。
「俺、男だぜ。お前も」
 政宗はまた鼻に掛けて笑う。どうやら、癖らしい。
「そうだな。俺たちは、紛れもなく」
 ミラクルな展開はなし、か。夢を見過ぎた
 むしろそんなの望んだ自分に、アッパーでも決めてやりたい。元親は瞬時に思いつく。よく考えろよ、さっき座られた時当たっただろ…ナニが。
「しかも俺教師」
「俺は生徒だな」
 そしてそこにハードルはないらしい。お手上げだ。





「…すごい混乱してるよ」
「今ならまだ待てるぜ」

 沈む太陽は綺麗で、熱い。
















(2006/09/13)
「先生と俺」第四幕。一段落まで長かった…
(当初の予定ではこんなになるとは思わなかったのにな/あはは)