罪深い生き物











 指先が触れて、ちりりと微弱な電流に似た感覚が走った。そのまま、ぎゅ、と指先を握り込まれる。真田幸村の高い体温が、猿飛佐助の冷たい指先を温めていくようだった。
 季節は七月。茹だるような暑さの中、幸村と佐助は空調のよく効いた図書室の片隅で机上にテキストを広げて身を寄せ合っていた。期末試験がもうすぐそこまで迫っている。図書室に居る誰もが教科書にかじりつくように俯いてシャープペンシルを持つ手を動かしていた。無言でじっと見詰め合う幸村と佐助だけが、どこか別の世界に居るようだ。机の上で不自然に握られた指先に気づくものは誰も居ない。幸村は秘密めいたその行為を楽しむように、佐助の指先を握った手にやわく力を込めた。
「だんな、」
「静かに」
 佐助の唇に人差し指を押し当て、幸村は口角をゆったりと上げて、うっそりと微笑んだ。仲間たちの前で見せる快活な笑顔とは種を違えた、佐助にしか見せない表情だ。この顔を見る度、佐助は自分の中にある仄暗い独占欲が満たされていくのを感じる。人間の欲とは全く果てが無い。器を水で満たしても、次の瞬間から渇いていくのだ。それを止める術など何処にも無い。少なくとも、佐助はそれを知らない。
『俺は旦那がすきで、旦那以外はなにも要らない』
 音にはしないで、そっと唇の裏側で呟いた。幸村は穏やかな笑みを浮かべたまま、親指の腹で佐助の唇をなぞった。佐助の唇は、嘘をよく吐く不実な唇だった。しかしその嘘が、幸村に向けられたことは一度として無かった。佐助の唇から嘘が紡がれることがあるならば、きっとそれはこの男からの愛を失った時だろう。幸村はそう思う。
 指先に触れる心地よい弾力を楽しんで、そこに唇を寄せた。佐助が制止の言葉を吐こうと唇を薄く開く。しかしその唇から音が発せられないことを、幸村は既に知っていた。
 ちゅ、と子供の戯れのような軽さで唇同士が触れ合う。たったそれだけで離れていく幸村の唇を、佐助は少しだけ恋しく思った。
「もう……旦那、何やってんの」
「今の問題、正解だっただろう?」
 幸村の指が、トントンとノートの一部を叩く。そこには幸村の文字で書かれた数式があった。問題に答えた褒美にキスを、とでもいうのだろうか。全く呆れてしまう。佐助と幸村が勉強を始めたのはついさっきの話で、まだ解かねばならない問題は山のようにあった。何せ今度のテストは期末試験だ。出題範囲はそれなりに広い。これらを解いていく度に一々キスなどされていては堪らない。誰かに見つかったらどうするというのだ。
「旦那、人目がある」
「俺は別に構わぬ」
「俺が構うんだよ」
 もしも変な噂が立って、ただ自分が何か言われるだけならば構わない。しかし幸村に火の粉が降り掛かることを佐助は許せそうになかった。たとえそれがどんな小さな火の粉でも。
 誰にだって「侵されたくない領域」というものを少なからず持っているものだ。佐助にとってのそれは幸村だった。それは「猿飛佐助」というシステムの一部にプログラミングされている、と言っても過言でない程の、動かしようのない事実だ。

「よォ、真田と猿。テスト勉強か?」
 聞き慣れた声にはっとして顔を上げると、幸村のクラスメイトである伊達政宗がニヤニヤと癪に障る笑みを浮かべて立っていた。いつの間にか、幸村は佐助の指から手を離している。
「伊達ちゃんさぁ、その『猿』ってのやめてくんない?」
「猿は猿だろうが」
 政宗が、佐助を小馬鹿にするように片眉をひょいと上げて笑みを強調する。今更そんな安い挑発に乗るつもりはなかったが、カチンと来たのは確かだった。この男と幸村に何故交友関係があるのか、佐助にはいまいちよく理解できない。
「政宗殿……政宗殿も勉強でござるか?」
「俺はチカの教育係、図書室で待ち合わせなんだが……あいつまだ来てねぇな」
 チカというのは長曾我部元親のことだ。元親と佐助はクラスメイトなのだが、同じ隻眼ということもあってか、元親は政宗と妙に馬があうらしい。前々から仲良くしていることは知っていたが、まさか一年年下の政宗に勉強を教えて貰っているとは。あの男は一体何をやっているんだか。
 政宗が辺りを軽く見回して、派手な銀髪を探す。目的の人物は居なかったようで、政宗は仕方ないとでも言いたげに大袈裟な溜め息を吐きながら視線をこちらへと寄越した。離れてしまった指先に言い様のない寂しさを覚えながら、佐助は手慰みにシャープペンシルをクルクルと回してみる。指先がひんやりと冷たさを取り戻していくのを感じた。普段見せる、子犬のように人懐こい表情を浮かべて政宗と話す幸村をぼんやりと見つめながら、佐助は思考の海に沈んでいく。
 なぜこんなにこの年下の男に惹かれてしまうのだろう。気づいた時には視線も心も奪われていた。佐助を強烈に引き寄せる引力のような力に、佐助は自ら選んで抗わなかった。自分を引き寄せる力の強さに観念した、と表現するのが正しいかもしれない。初めて会ってから一年と少し、佐助を引き寄せる鮮烈な光はその輝きを増すばかりで衰えるということを知らない。
「猿、珍しく大人しいな。生理でも来てんのか」
「馬鹿には付き合ってられない」
 ニヤニヤと嫌な笑みを口元に張り付けた政宗を一瞥して、佐助はテキストへと視線を落とした。そうだ、馬鹿には付き合っていられない。限られた期末試験までの時間を、自分たちは有意義に使わねばならないのだ。  幸村の勉学については、彼の親代わりである武田信玄から頼み込まれている。信玄には、佐助も少なからず恩があった。それを仇で返す訳にはいくまい。自分は要領よく勉強しているから赤を取ることはないだろう。まずは幸村を優先することにする。
「旦那、問題の続き。やってみて」
「分かった」
「伊達ちゃん、邪魔しないでよね」
「邪魔はしねぇが口は出すぜ」
 この男特有の軽口はスルーする。幸村は決して勉強ができない訳ではない。ちゃんと理解するまでに、少し時間が掛かるだけなのだ。分かりやすく噛み砕いて、少しずつ教えていけば、ちゃんと応用問題が解けるレベルになる。それは今までの経験から分かっていたことだった。
「……さすけ、できた。見てくれ」
 子供のように無邪気に、幸村が佐助へと笑顔を向けてきた。条件反射で優しく頭を撫でてやると、政宗が相変わらずニヤニヤとチェシャ猫のような笑みを浮かべているのが視界に入ってきた。厭な男だ。こんな男と好き好んでつるんでいる元親の気が知れないと佐助は思う。
「佐助、合ってるか?」
「ちょっと待って……うん、合ってる。よくできました」
 まさか政宗が居る前でキスを強請ってきたりはしないだろうと思っていたが、案の定幸村はヘラリと嬉しそうに笑うだけだった。さて、次の問題に取り掛かるかと思ったところで、一つ年下の可愛い後輩は、目敏く何かを見つけたようだった。図書室の入り口を指差して声をあげる。
「政宗殿!元親殿がいらっしゃいましたぞ!!」
 天然らしい銀色の髪と左目を隠す眼帯の所為でよく目立つ派手な男が、こちらへとゆっくり歩いてくる。政宗の唇が嬉しそうに歪んだのを視界の端で捉えながら、佐助もそちらへと向き直った。
「オイコラ、おせぇぞ元親。アンタ、俺に勉強教わる気ィあんのか」
「うっせぇな…生徒指導に呼び出されたんだよ、仕方ねぇだろ」
「アンタ、また喧嘩したのか」
「してねぇよ。どこも怪我なんざしてねぇだろ」
 柔らかそうな銀色の髪でキラキラと日光をはねている元親は、軽く肩を竦めてみせた。そして佐助の視線に気づくと、困ったように眉尻を下げて笑う。まるで何もかもお見通しだとでも言いたげに。
「悪いな、佐助、真田。政宗が邪魔しただろ?コイツ、連れてくから」
「いえいえ、お気になさらず〜」
 ひらひら、と手を振って、有無を言わせず政宗の手を握って空いたテーブル席へと向かう元親の背中を見送る。何か文句を言うかと思った政宗は、しかし大人しく手を引かれていた。なんだかんだで仲が良いんだよな、と思っていたところに、唇の端を掠める感触がある。はた、と気づいて幸村を睨み付けると、当の幸村は佐助の視線に含まれた棘などさして気にした風でもなくやんわりと口端を上げた。
「旦那、そういうのは心臓に悪い」
「一問につき、一回だろう?」
 そう言って、また幸村が例の笑い方で微笑みかけてくる。それだけで何も言えなくなってしまう情けない自分を叱咤しながら、佐助は平静を装ってテキストに視線を落とすのだった。案の定、内容なんて頭に入ってこない。
「……旦那、今日は帰ろ」
「どうした?」
「ここじゃ、集中できないよ」
 分かった、と幸村は意外なほどあっさりと引き下がった。それを少しだけ怪訝に思わないでもなかったが、佐助が動揺のままにもたもたと教科書やノートをかき集めている間に、幸村は手早くテキストを鞄に詰めて立ち上がってしまった。
「じゃあ、続きは佐助の家で」
 そう言った幸村の言葉に含みなど無い。そこまで深読みする方がどうかしている。しかし、佐助は自分の耳が赤く熱を持っていくのを自覚せざるを得なかった。手を差し出されて、一瞬思考回路がフリーズする。恐る恐る手を伸ばせば、躊躇うことなくその手を握られる。幸村の温かい手に負けないくらい、今の佐助の手は熱い。ふと邪気の無い笑顔を浮かべた幸村が、疑念など一片もないきらきらとした眼差しで佐助を見つめた。
「じゃあ、帰るぞ佐助!!
」  一瞬の沈黙は、まるで永遠のようだった。
 幸村は確かに佐助の家に行くことを「帰る」と表現したけれど、たったそれだけのことがこんなに衝撃的であるとは。余りの衝撃に、言葉は喉の奥に引っ掛かったまま出てこなかった。ただゼンマイ仕掛けの人形のように、こくり、と一つ頷いて、佐助は幸村と手を繋いだまま鞄を片手に図書室を後にした。背後で政宗が何か言っていたが、まるで耳に入ってこなかった。
 幸村の帰るところが、いつも自分のいるところであればいい。なんて。なんということだろう!人間の欲望には、本当に果てがない!

















鳥居さんから頂きました!
まさか鳥居さんの幸佐を見ることが出来るとは…!嬉しい!何だか照れました。あまりに二人が惹かれ合っていて照れました。伊達チカの二人にはもえました。
ありがとうございました!!