シアトリカル
あれ以上の幸福は、後にも先にもないと元親は確信している。
実際、片手で数えるには足りない程の年数が経った今でもぽつりぽつりと、生きてて良かったなぁ、俺は幸せ者だなぁ、と思うことがない訳ではなかった。けれども、例えば頭の芯がじわじわと痺れて天辺から足先まで火照り、永遠にここで浸っていたいと全身を任せたくなるような、強烈でいてあたたかい心地は何をしてもあの時以来、得られていなかった。
伊達政宗は不思議な男だった。
元親にとってはいい友人であり、間もなくかけがえのない思い人へとなった。
人を寄せ付けようとしない、どこか硬質で冷たい雰囲気と皮肉を好む性格から他人と対立することが多く、無意味な争いを生みやすかったが、深くつきあっていくにつれて言葉足らずの寂しがり屋であると元親は気がついた。
高層マンションに一人暮らし。同居している家族はおろか、連絡を取っている様子も一切なかった。どこか遠くにいたのだろうか、それとも喧嘩別れでもしていたのだろうか。尋ねても、困った風にしているだけだったからそれ以上問いを重ねなかった元親は知らない。
見た目からは想像がつかないが、政宗は繊細な男でもあった。
粗暴な振る舞いをするくせに傷つくのも、傷つけるのも、正直なところあまり好んでいないきらいがあった。その証拠に、元親へ対しては底抜けに優しかったし、そんな男が躊躇いを垣間見せながらおずおずと甘えてくる仕草がたまらなく愛しかった。
元親自身が口にするのも可笑しな話だが、同性同士であっても付け焼き刃なものではなく、下手に縛り合うこともなく時たま衝突はあったが充分互いを尊重出来ていて、理想的な関係だと言えた。このままなら永遠に続いていくと無自覚に思っていた程だ。
だから、唐突に別れを切り出された時はショックというよりも、信じられない、信じたくないという思いがぐるぐると元親の中を渦巻いていた。
「もう、アンタとは一緒にいられない」
今でも政宗の声で一言一句間違えずあの時の言葉を再生できるのに、どんな受け答えを返したのか、笑ってしまえるほど元親は覚えていない。
もしかしたら何も言えず、こくりと頷いただけだったのかもしれない。
激しく首を振ったのかもしれない。
けれども次の日から、政宗は忽然と姿を消してしまった。
急な転校だという話だけで、行き先は友人達や教師の誰も知らなかった。海外だ、いや南の島だ、最北端だ。はっきりとしない噂を耳にするたび元親は落胆した。
まるで、この世界のどこにも政宗が存在していないかのように聞こえるからだ。
それから元親は休みがちになった。突然、前触れもなくぽかりと空いた穴をそう簡単に埋められなかったし、政宗のいない学校へ通うこと自体が辛かった。自室にこもり、政宗専用に設定した着信音だけが鳴らない携帯を抱え、布団を被ってばかり。食事も満足にとらないものだから周囲に大層心配を掛けてしまった。
救いだったのは、クラスの親しい友人たちがこれまで通り接してくれたことだった。政宗とつきあっていたとは話していなかったが、いつの間にかバレていたようだ。
「特別な人だったんだね」
いつも通り自宅へ押しかけて来て、ぐだぐだと他愛ないことを心ゆくまで話した日の帰り際。ふと何の気なしに言ってくれるものだから、元親は堪えきれず玄関先で蹲り、みっともなく声を上げながら泣いてしまった。辛い辛いと感じつつも涙はそれまで一粒も零しておらず、所詮そこまでだったってか、と自身に呆れていた頃だったから、随分すっきりしたのを覚えている。高校はそのまま勢いに任せて退学した。
それもこれも、八年前の出来事だ。その間に元親の身の回りは様変わりした。
ひきこもり生活の中でも続けていた趣味のパソコンいじりは今や生活費を得る方法であり、規模は小さいながらも起業に成功していた。まさか、社長、なんて呼ばれる日が来るなんて元親自身これっぽっちも考えていなかったから、今でもむず痒く感じる。人生、どうなるかわからないとはよく言ったものだ。
ありがたいことに経営は順風満帆で、都内にオフィスを構える話もあったのだが、元親はあっさりと断った。
政宗との思い出に溢れたこの土地から離れることはどうしても出来なかったし、もしかしたら戻ってくるかもしれないと今更ながら思ったのだ。いつか帰って来た時、政宗が寂しがらずに済むよう待っていたかった。
時折、政宗と過ごした日々をふと思い出す。
昔のように条件反射で涙を零すことは殆どなくなったが、それでも胸が詰まり、何もしたくなくなる時があった。
今頃、何をしているのだろうか。
元気でやっているのだろうか。笑っているだろうか。一人で隠れて泣いてはいないだろうか。
せめてそれだけでも知る術があったら良かったのに。
そんなことを考えながら、うとうと浅い眠りに就いた次の日。元親は決まって遅刻した。
* * *
場所は母校から程近い居酒屋。在学中、何度も前を通ったから覚えている。今日は高校時代の友人らと飲み明かす予定になっていた。退学した元親には同窓会の案内が届かない。どうやらそれを気にしてくれたようだ。腕時計を見やれば、集合時間より五分ほど早かった。そろそろ誰かは居る頃合いだ。
就職や進学で離ればなれになった後も携帯で時々連絡を取り合っていたが、直接会うのは久しぶりになる。ちょうど連休と日程を合わせたからゆっくり話し込めるだろう。
こぢんまりとした店内は、休み前もあって殆ど満席で賑わっていた。猿飛の名前で予約していることを伝えると、店員は奥の個室へと案内してくれる。
「お久しゅうございますな!」
「お疲れ〜。元気そうだね」
先に着いていたのは幸村と佐助だった。既に飲み始めている。生一つ、と温かいおしぼりを受け取りながら注文し、元親は二人の向かい側に腰を下ろした。
「いつぶりになるんだろ?チカちゃん、成人式も来てなかったよね。忙しいとか言ってなかなか空けてくれないし…今回も日程をみんなと合わせるの大変だったんだから」
「悪ぃ。でも、忙しいのは嘘じゃないぜ?」
「聞いておりますぞ、元親殿!なんでも社長をしておられるとか」
「社長だから忙しいって訳でもないが…ま、いいや。仕事の話より酒だ、酒。そういや幸村、お前飲めるようになったのか?」
からかいを含んだ問いに、幸村は得意げに答える。
「いつまでも昔のままと思うなかれ、そう簡単には潰れませぬ」
「へー。いつだったっけ?俺んちで飲みしたの。アレは凄かったなー」
忘れては頂けぬのか。がくりと項垂れた幸村に、佐助と元親は腹を抱えて笑い出してしまった。
と、個室の薄い引き戸が勢い良く開く。そこには懐かしい友人が不機嫌そうな表情で佇んでいた。背後の店員が少し引き攣った笑顔でジョッキビールを手にしている。
「揃いも揃って喧しいな。馬鹿が馬鹿騒ぎか」
「よぉ。元就も呼んでたのか」
注文した品とお通しの枝豆を受け取るついでに、元親は勝手に元就の分のビールを追加で頼んだ。それを目の端で眺めていた元就は満足したようで、きっちり結わえていたネクタイに指を差し込み緩め、佐助の隣に座る。
「元就サン。もっと遅くなるかと思ってたよ」
「遅れるとビービー五月蠅いのが居るであろう」
「えっ俺?」
「某?」
「自覚があるなら何よりだな」
元親の枝豆へ勝手に手を伸ばし、元就は黙々と噛み砕く。マイペースな所は相変わらずだ。しかし、腹が立つよりも先にほっとしてしまう。
「おい、長曾我部。何をにやけている?」
「別に。なんか、いいなーと思って」
ふん、と明らかに小馬鹿にした様子で鼻を鳴らした元就は、運ばれてきたジョッキを傾けた。元親も倣ってキンキンに冷えたビールを煽る。喉元から臓腑の隅々までアルコールが染み渡り、良い気分だ。
「おお!やっているな!」
「すまない。遅れたようだ」
「先に始めておりました。注文は?」
次いで連れ立って現れた家康と三成は、元親を間に挟み座り込む。どうやら、昔ほどいがみ合ってはいないとはいえ、未だ歩み寄るには至っていないらしい。そういえば学生時代からクッション代わりにされることが多かった。元親は何とも言えず微笑ましい気持ちになる。
飲み物がすべて回ったのを確認し、幹事である佐助はジョッキを掲げた。皆それに続く。
「今日はお集まり頂き、どーも!元就サンとチカちゃん以外はみんな地元から離れてたし、こんな出席率いいなんて思ってなかったよ正直。とりあえず元気そうでよかった」
「やっぱ口がよく回るなー佐助」
「茶々いれないでよ!」
じゃ、久しぶりの再会を祝って。乾杯!
佐助の音頭を合図に、ぶつけ合ったジョッキが小気味良い音を立てる。元親は一気に残りを流し込んだ。
「そうだ、元就。この前自宅のパソコンの調子が悪いとかでうちの社員が顔出したやつ。美味い和菓子とお茶ご馳走になったんだってな。サンキュ」
「…彼女は鶴姫といったか。母が大層気に入っていた。また何かあったら宜しく頼もう」
「貴様。こんな所にフラフラとやって来るんだ、経営はうまくいっているのだろうな。飯はきちんと食っているのか」
「三成、まさかお前から飯の心配されるとは思ってなかったぜ。ありがたいことに順調だよ。お前はどうだよ?」
「えっ、じゃあお二人は同じ会社なんだ」
「ああ。二大エースだのライバルだの言われるんだが、ワシはそういうのが苦手で…」
「家康!私は貴様に決して負けはしない!」
「ああっ溢れておりますぞ三成どの!」
「旦那。袖、ついてるよ」
「しまった!」
「あーあ。いつまで経っても佐助離れしてねぇのな〜」
「静かに飲み食い出来ぬのか貴様ら」
八年。
人が変わるには充分過ぎる時間だ。現に、ころころと小犬のようにじゃれついて来た男は逞しく一端の好青年へと成長し、何かにつけて怒りを爆発させてきた男は他人への心遣いさえ見せてくる。以前からは想像できない姿だ。
元親だって、何も変わらずにきた訳ではない。あれから身長だって多少伸びたし、それなりの肩書きを持って振る舞わなければいけない中で嫌々ながらも狡猾さを身に着けた。
実のところほんの少し、不安だったのだ。
いざ顔を合わせてみて、懐かしむよりも先に互いのギャップを強く感じてぎくしゃくしてしまうのではないか、と。けれどもそれは杞憂に終わった。根本的な所は何一つも、誰一人も、変わっていないのだ。こうして再び気心の知れた仲間と大騒ぎ出来ることがただただ嬉しい。
唯一、悔やまれると言えば、政宗がこの場に居ないことか。
元親は密かに、ここまで来て思考が直結する自身を力なく笑った。どうやら、自身の根本は政宗と切っては切れないほど深く繋がっているらしい。
突然目の前から消えた政宗は心だけを拠り所とした関係に、嫌気がさしたのだろうか。
それとも変化していくことを嫌ったのだろうか。
どっちにしろ、今なら当時とは違った答えが出せる気がする。離ればなれになるにしてももっと傷つけ合わずに済む方法があった筈だ。
別れ際。顔に掛かった黒髪の向こう。
こちらを振り返った政宗の今にも泣き出しそうな表情がずっと忘れられずにいる。
「元親」
しばらく思案に耽っていたせいで反応が遅れてしまった。不明瞭な返事をし、慌てて顔を上げると家康が不思議そうな顔をする。すかさず向かいの佐助がニヤニヤと笑った。
「もう酔ったんだ?チカちゃん」
「ちげーよ!」
おねーさん。今日の焼酎、ロックで。
元親は空いたグラスを掲げて廊下を歩く店員を捕まえた。元就も流れるような仕草で空のグラスを押しつけ、同じものをもう一つ、と涼しい顔で注文する。
「実はな、元親。お前にどうしても話しておきたいことがあるんだ。だが、もしかしたら、気分を害してしまうかもしれない」
「なんだよ。水臭ぇこと言うなって。俺とお前の仲だろ?」
「…政宗のことなんだ」
ぴしり、と周囲の空気が凍り付いたのがわかった。元親も思わず硬直する。道理で改まって話そうとする訳だ、と冷静に考えてしまうあたり、昔よりも図太くなったようだ。
がたり、とテーブルを叩いて三成が身を乗り出した。
「家康、貴様…!よくもそんな話ができたものだな。元親がどれだけ悲しんだのか忘れたというのか?少しは考えて物を言え!」
「考えたからこそ、話すと決めた。いつまでも縛られたままでは元親が苦しいだけだ」
店内の喧噪がやけに耳につく。皆が押し黙ってしまった。俯いた元親の前に、店員がグラスを置いて行く。窺えば、元就は既に口元へ持って行き、舐め始めていた。
「ワシの知り合いが、政宗によく似た男がとあるダーツバーで働いているのを見かけたそうだ。一、二週間前に聞いた話だから店に行ったらまず会えるだろう。ただ、政宗本人かどうかはわからない」
家康の言葉に耳を立てながら、元親は水にたゆたう氷を指先で弄んだ。顔が火照っている。佐助の言う通り、酔いが回ってしまったのだろうか。
幸村の真っ直ぐな視線を痛いほど感じる。
「無理はしなくとも気が向いたらでいい。決めるのは元親だ。地図を渡しておこう」
差し出された一枚の紙には手書きで周囲の地理と駅とが丁寧にメモされている。紛れもなく家康の字だ。
これまでも事ある毎に我が儘を言って振り回してきたのによくぞ付き合ってくれているものだ。いくら感謝しても足りない。元親は地図を受け取り、頭を下げる。
「会えるもんなら会いてぇよ」
絞り出した声に、家康の表情が和らいだ。
この面子の前で今更取り繕う必要はないかだろうが、それでもあまり顔を見られたくなかった。
「ありがとな。みんなありがとう」
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