DOGHOUSE001
舗装された道路のように、平坦で起伏のない道を歩くのもいいだろう。けれど、それも長く続けばただ退屈なだけだ。
「じゃあ、今日はこれで終わりにします」
教師が口を開けば更に大きくなる喧騒。逃げるように教壇を後にする初老の男には同情こそしないが、一瞬の間だけ憐憫の情を催す。
放課後になればしめたもので、生徒たちは蜘蛛の子を散らしたように教室から消えていった。あっという間に閑散とした空間。その最後尾にある席で、伊達政宗は溜め息をついた。
「…つまんねえ」
誰も聞くことのない呟きであったが確かに空気を震わせたそれは、自分自身の耳にも響いて乾いた笑いを齎した。
退屈しているのも鬱積しているのもいつものことで、今さら確認するまでもない。それでも口から滑り出た言葉に、相当の域まで達したフラストレーションを自覚した。世界が灰色に見える、なんて、ただの感傷でしかないが。
学校指定の学生鞄を片手に、静寂を湛えた教室を後にする。他の奴と一緒に慌てて出て行く理由がないだけで、これ以上ここに留まる理由はなかった。
屋上に足を向けたのは、ただの気まぐれだった。道端に転がった空き缶に蹴りをくれてやる程度の、瑣末な変化。
視界が薄闇に覆われている。秋はいつだって急いで夜を連れてくる。部活動に励んでいるらしい生徒の声が遠くから疎らに聞こえる以外に音はない。階段を一歩一歩、勿体つけて踏みしめるように進んで、屋上と踊り場を隔てる安い扉の前に立った時、それに気づいた。
静水のようであるはずの空気が、扉という仕切り一枚隔てて異質なものに変化している。
瞬きをする間だけ考えて、ドアノブに手を掛け、引く。
開かれた景色、見える町並みはいつもと大差ないそれだった。ただ、狭い視界の端で対峙する二つの影を除いては。
どうせつまらない喧嘩だろうと見当をつけた。距離を置いて向かい合う二人、その内の一人が銀髪であったからだ。この高校ではもちろん、この辺りに住んでいて長曾我部元親の名前を知らない奴は居ない。そう言ってもいい程の有名人だった。ただし、悪い意味での有名人。手のつけようが無い暴れ馬。
そういえばホームルームの時間、目立つ銀髪は見当たらなかった。政宗と元親はクラスを同じくしていながら、一度も言葉を交わしたことは無い。それに大した理由がある訳でもなかった。ただ互いに用が無かったというだけで。
夕闇を吸って熱を無くし冷えてゆく銀髪に対する、名も知らぬ男。鬼の異名を持つ暴力の申し子に対するは愚かさ故か、勇ましさ故か。どちらにしろ大した違いはなかった。そのまま何とはなしに成り行きを傍観する。そもそも目的があって屋上に来たわけでもない。
まず男が動いて、拳を突き出す。一目見て喧嘩慣れしていないとわかる拙い動きだったが、元親は微動だにせず薄笑いを浮かべてそれを左頬に食らった。
その刹那、一つしか見えない元親の眼に鮮烈な怒りの色が浮かぶ。
それは膚を舐める炎、空を焼く暗い夕焼けの色だ。
空気に触れた皮膚がビリビリと粟立っていく。酩酊のような陶酔。頭が疼く。急に喉が渇く。あたりの景色の色すら変わった気がする。心拍数が上がる。欠けたパズルのピースがパチンと小気味良い音を立てて嵌まったような感覚に、政宗はただ酔った。未知の感覚だった。政宗とは逆の眼を露出した男には単なるシンパシーすら抱いたことが無かったのに今になって何故。
好奇心という芽は恐ろしい。瞬くあいだに芽吹いて育つ。
しかし、元親の鋭利で鮮やかな怒りは、すぐになりを潜めてしまう。後に残ったのは虚脱に似た倦怠のようだ。ぎらぎらと光っていた眼に、もうあの鋭さは無い。目の前の男に対しての興味はすっかり失せた様子で、けれど暴力の申し子は何かのついでのように投げやりに拳を振るう。政宗の立っているところまで空気を切る音が聞こえそうな鋭さで、それは哀れな男の顎を襲った。濁った音がひとつ。
「生きてっかぁ?」
膝を折り、崩れ落ちた男を足で転がすことで上向かせて、腹を片足で踏みつけながら元親が口を開いた。反応など端から期待していないだろう。聞こえた声は不機嫌に掠れている。このまま見ないふりで帰宅するという選択肢は既に政宗の頭から消えている。
「それくらいにしとけよ」
声をかけた。神経が昂っている。口元が薄く笑みを形作るのを制御できない。元親はといえば、人の気配には感付いていたようで、闖入者に取り乱す様子も無くこちらを睨み付ける。
その時に、決めた。芽吹いた好奇心を鋏で摘んで捨てるような真似はしないと。
「長曾我部、お前は刺激が欲しいだけだろ」
「そうかもな」
むきになって否定するかと思ったが、元親は思いのほか素直に政宗の言葉を肯定した。唇を歪めて自嘲的に笑うあたり、自覚はあるのだろう。話の通じない馬鹿はやりにくい。銀色の髪の奥、頭に詰まった脳味噌の性能がそれ程悪くないらしいことに気を良くして、政宗は笑みを深める。
「俺と来るなら、お前が欲しがってるモンをやるぜ」
自嘲的な笑みを潜めて、元親の表情が固まる。驚いたのか、呆れたのか。どちらでも良かった。意思の色が感じ取れない片目を見つめて、片手を差し出す。その眼に俺を映せと、俺の元へ来いと促す。
政宗の動きにつられるようにして元親は手を差し出した。見えない糸に繰られているようなぎこちなさで、少しずつ近づいた指先が、触れる。触れた指は燃えるように熱かった。指先に触れた熱を逃がすまいと、節ばった熱い手を捕まえる。正気づいた元親が厭うても、もう放すつもりは無かった。
「…上等」
政宗の唇が無意識に綻ぶ。
陰を含まない笑顔など、ここ最近浮かべた記憶は無かった。
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